| メッセージ(大谷孝志師) |
| 御子イエスの真の姿 |
| 向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年3月10日 コロサイ1:15-20 「御子イエスの真の姿」 牧師 大谷 孝志 |
主の弟子達は自分達の耳で聞き、目で見、手で触りました(1ヨハネ1:1)。しかし、彼らも父なる神を見たことがありませんでした。私達は父なる神もイエスも見たことはありません。ただ福音書を通して主イエスの姿を想像するだけです。弟子達は主に「既にあなたがたは父(なる神)を見たのです」と言われて「私達に父を見せて下さい」と言いました。見ないで信じる者は幸いと主に言われても、見ないと不安になるのが私達ではないでしょうか。それが人間なのです。だからこそ、主イエスが十字架に掛かって死んで、私達の罪を取り除いたのです。主が十字架の上で、息を引き取った時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。これは聖所と至聖所を隔てていた幕と考えられています。至聖所は神が臨在する場所で、大祭司のみが年に一度の大贖罪日だけに入るのを許されました。その幕が裂けたのは、神の支配がこの世に突入したことを意味します。神の国がこの世の中に存在するようになったのです。しかし神の国は「見よ、ここだ、あそこだとか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」と主が言ったように、聖霊の助けがなければ見ることが出来ません。 弟子達は「私を見た人は父を見たのです」と言われても、目の前にいるのはイエス以外の何者でもなかったのです。しかし、イエスの向こう側に父なる神がいたのは事実でした。主は嘘をつかないからです。そして聖霊降臨後、聖霊に満たされた彼らは、この世というベールに覆われて肉の目では見えないが、自分達が神の国にいると悟り、大胆にその事実を宣べ伝え始めたのです。今日のみ言葉も弟子達が人々に伝えや宣教内容の一部です。それは弟子達が主イエスの公生涯を共にする中で教えられた事、40日間現れた復活の主に、そして初めはエルサレム教会の働きの中で、パウロなどの働きによって生まれた異邦人を加えた教会の働きの中で御霊に教えられた事等の集大成とも言えるものです。書かれているのは、人が理解できる言葉でも、人間の常識を遙かに超えた事実を証明無しに、一方的に宣言している言葉です。聖書はこの世のベールの外にあるこの事実をあなたは信じるかと問い掛けています。私達がこれを読み、自分が信じている主イエスがこのような方であると信じ、アーメン(真実です)と言って受け入れるなら、「私は私の人生の全ての事に於いて、主イエスを第一の方とします」と告白する事です。 私達はこのような素晴らしいイエス様を自分の主と信じ、「道であり、真理であり、いのちである」主イエスという永遠のいのちに至る道を父なる神の御許に向かって歩いているのです。主の復活後、自分の村エマオに帰る途中の弟子達は、一緒に歩いている人が主イエスだと分からなかったとルカ24章に記されています。彼らは何故主イエスが一緒にいたと分かったのでしょう。聖書の説明を聞いた時に心が内に燃え、割いたパンを渡された時、十字架の主が彼らの内に入った時、彼らの目が開かれ、主だと分かったのです。彼らはベールに覆われたこの世の外にある世界との出会いを経験したのです。それは位置はあるが面積は無い接点でした。ですから主の姿は見えなくなりました。しかしこの世に生きる彼らの心には、主と出会った霊的事実、心が内に燃えた事、復活の主を見た事の記憶は残ったのです。主は今も共にいて、霊的事実を経験する機会を与えようとしています。聖書を読み、祈り、礼拝を大切にしていましょう。心をしっかり主に向けて、心が内に燃える経験をし、主が共にいる喜びを味わいつつ生きる人になりましょう。 |