メッセージ(大谷孝志師)
主イエス・キリストはどんな方
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年5月5日
ローマ1:1-7「主イエス・キリストはどんな方」

 今日は「こどもの日」ですが、先週の金曜は「昭和の日」でした。昭和の時代はこの日が「天皇誕生日」でした。日本人1億2千万人の中で、自分の誕生を国の祝日として祝われるのは天皇一人です。天皇の誕生日はそんなにお目出たいことなのでしょうか。天皇は、宮中の祭祀を大切に受け継ぎ、常に国民の幸せを祈り、年間約20件近くの祭儀が行います。天皇は即位すると大嘗祭を行い、皇祖皇宗を招いて食事をし、神威を受け継ぎ、天照大神の子として天皇の資格を得ます。ですからこれは国事行為ではなく、皇室の行事なのです。一方で国にとって重要な儀式であり、公的な性格があるとして、費用は公費(宮廷費)から支出します。天皇の存在により、日本が平安に保たれていると考える人だけでなく、今も天皇を現人神と考える人もいるのは事実です。キリスト者であり、日本人である私達がどう受け止めるかは大切な問題です。

 しかし、主イエスと天皇には類似しているところがあるのです。天皇は憲法において「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と定められています。「象徴」とは、天皇という一人の人間に日本国が実体化されていることを意味します。日本国という漠然とした存在が、天皇という一人の人の存在に現されているのです。

 主イエスは「私たちに父を見せてください」と言ったピリポに「わたしを見た人は、父を見たのです(ヨハネ14:9)」と言いました。私達は父なる神を見ることはできません。神と人とは本質的に異なるからです。しかし、主イエスが人となってこの世に来たことにより、人は主イエスという存在を通して、神がどんな方であるかを知ることができるようになったのです。天地万物を創造し、全被造物を支配する神が、主イエスという存在に象徴的に実体化されているのです。しかしパウロが「肉によればダビデの子孫から生まれ」と言うように、主は私達と同じ肉体も持つ人として生まれたのです。それは、全ての人の罪を贖う為には、人として十字架に釘付けにされ、神に見捨てられて死ななければならなかったからです。しかし人であったからこそ、祭司長達や律法学者達、そして民衆は「イエスを殺せ、十字架に付けろ」叫ぶことに何の躊躇も感じないで済んだのです。主が神の御子であることは、僅か数人を除いて、殆どの人の目には隠されたままだったのです。しかし、主イエスは復活したのです。しかし復活の主を見た弟子達は、その時、脅えて震え上がり、幽霊だと思いました。なぜなら、霊の体でよみがえった主の姿は、弟子として生活を共にする時に見ていた主の姿とはどこか違ったからです。

 目が遮られていた、エマオに帰る途中で主に会った二人の弟子は別ですが、復活の日の朝に主に会ったマグダラのマリアも、ティベリア湖畔で主に会ったペテロも、主が愛された弟子に「主だ」と言われるまでは、その姿を見ても気付けかなかったのです。またその時に、主に「さあ、朝の食事をしなさい」と言われた弟子達は、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」と敢えて尋ねなかった」とヨハネ21:12に記されています。彼らが、主であることを知っていたので、敢えて尋ねなかったということは、霊の体で復活した主は、肉の体で生きていた時の姿とは違ったからです。ヨハネが1:14で記す「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことにちておられた」御子としての姿をしていたのです。ですから弟子達は、その主イエスの姿の内に、自分達が信じる神を感じ取れたのです。この時、御霊が働いたのだと私は思います。人として自分達と共に生き、十字架に付けられて死んで復活した主イエスが、目に見えない父なる神を象徴するシンボルとなることで、弟子達は、主ご自身の内に神が完全に現わされていると知ることができたのです。

 この手紙を書いたパウロも、初めはイエスを人としか思えなかったのです。ですから、懸命にクリスチャンを迫害したのです。しかし、彼は聖霊の働きにより、復活した主イエスと出会ったのです。そして、イエスこそが自分の主であり、神の御子であると知ったのです。主イエスが神の象徴となって、神を全面的に現している方だからです。イエスが、人としてこの世に生まれ、人としてこの世に生き、十字架に付けられて死に、復活した主キリストが、万物の創造者、唯一の神を現している方であることは、私達にとって大きな意味を持っています。御子イエスが私達の主であるということは、私達が御子の父である神が私達の主であることを意味するからです。ですから、私達全ては神のもの、神の僕であることを意味するのです。そして「私達が」ということは、私達一人一人が同じ神の僕仲間を意味することになります。

 私達は主イエスを信じ、救われました。そして神の子どもとなる特権を与えられています。神と主イエスから愛と恵みを受け、神の子どもとして、神の世界に、恐れと不安の無い人生を安心して生きています。私達は聖書を通して主イエス・キリストがどんな方かを知らされています。その主が私達と共にいて、愛と恵みを与えているから、日々を平安に過ごせると感謝しています。しかしその主は、旧約聖書が教える、善を喜び、悪を嫌い、御心に従う民を祝福し、必要なものを豊かに与えるが、神を神として敬い従わず、神に背く人々を、滅ぼし尽くす神を、私達に完全に示す方なのです。神はご自分がそのような方であることを、御子を世に遣わすことで、全ての人に明らかに示しているのです。御子イエス・キリストが神を象徴する方だからです。

 世の人々は神を知らず、イエスが自分達の主であり、キリスト、救い主であること、自分が罪の故に神に滅ぼされる存在であるのに、神がご自分が創造した人を愛し、ご自分と共に生きる者となることを望むので、その為に御子をイエス・キリストとして、ご自分を象徴する者として、この世に遣わしたのです。しかし、御子を信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を持って、ご自分と共に生きる神の子ども達としようとしているその御心を知らずにいるのです。ですから、その事を信じて欲しい、主イエスを信じて救われて欲しいと願って、私達が福音を宣べ伝えて、働き掛けているのですが、主イエスが復活したとの女性達の知らせを戯言のように思い、信じなかった使徒達のように、世の人々は撥ね除け、滅びに向かって世に生きているのです。私もかつては、イエス・キリストがどんな方であるかを知らず、歴史上の偉人ではあっても、実際は人が作った話の部分が多いのでは思っていました、また、父に言われて神社で参拝したり、お日様を拝んだりしましたが、神というものの存在は何となく感じてはいたものの、むしろ、無神論者でした。

 でも、教会に来てキリスト者と触れ合う中で、主イエスを信じて救われました。そして主イエスが、自分と同じような人として世に生き、神がどんな方であるかを、人々に教えたことを、聖書を通し、キリスト者が話すその話を聞いて、主イエスが今も生きていて私と共にいることが、本当に事実だと分かったのです。これは衝撃でした。それが分かった時、自分に神の愛と恵みが注がれていると自覚できたのです。神の愛と恵みが分かった時、その事を知らない世の人々の為に私に与えられている務めがあると分かったのです。

 世の人々に福音を伝えること、一人でも多くの人が主イエスを信じて救われる為に主の証人となって働くことが御心であり、私の勤めと分かりました。聖書や人の言葉や祈りの時に、すべき事に気付くのは、主の導きなのです。主イエスは御子であり、主であり、キリストであり、父なる神の御心を現す方です。全知全能にして万物の創造者である見えない父なる神を象徴する私達と同じ人として心に思い浮かべられる方が、私達が信じ従っている主なのです。この主イエス・キリストと共に、真の神を世の人々に知らせましょう。