メッセージ(大谷孝志師)
心の目を開いて戴こう
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年5月12日
エペソ1:15-23「心の目を開いて戴こう」

 今、教会に来て礼拝している私達にとって一番必要なことは何だと思いますか。それは心の目が開かれることです。御言葉を戴き、御心を知り、恵みと平安を与えられ、新しい思いをもって世に出て行くことを願っているかもしれません。奏楽や会衆の声を耳で聞きながら、自分の目と声で讃美し、聖書も耳で聞き、目で読んでいます。語る私の姿を見、説教も聴いています。でも、それだけでは皆さんは変われないのです。心の目が開かれるなら、私達は自分の人生が大きく変わるのを経験できます。この手紙を書いたパウロはクリスチャンになる前、ダマスコでもクリスチャンを迫害してやろうと、息を弾ませていました。しかしその途中で、復活の主イエスが突然声を掛けてきたのです。彼は主イエスに出会ったのです。彼は主の声を聞きました。同行していた人達も声は聞こえたので、幻聴ではなく声が聞こえたのです。しかし、彼は目を開けていたのですが、何も見えませんでした。そして三日間、目が見えず、食べることも飲むことも出来ませんでした。しかし、主がパウロのもとに遣わしたアナニアが彼の上に手を置き、主の言葉を伝えると、目から鱗のようなものが落ち、目が見えるようになったのです。最初に主と出会うことによって生じた目が見えず、飲み食いできなかった三日間は、主イエスの十字架の死から復活するまでの三日を連想させます。彼はこの体験によって、これ迄の自分の人生が霊的盲目、霊的死の状態であったことに気付かされたのです。主は彼と出会い、彼に心が闇で覆われていた事、自分が正しい、これで良いと思っていた事が全く間違いであったと知らせたのです。

 この世の人々は、私達や様々なメディアを通して、主イエス・キリストについて知らされています。しかし聞くには聞いても、心には届きません。殆どの人は信じられないからです。私も高校生の時、教会に来てクリスチャンと話していても、礼拝に出て、牧師の主イエス・キリストについての話を聞いても、肝心のイエスの姿も見えず、声も聞こえないので、中々信じられなかったことを思い出します。それだけでなく、牧師を50年していますが、これ迄、現状に不安や疑問、恐れすら感じてしまうのが現実でした。昔、主を信じられないでいて、教会の中で孤独を感じた時、「私があなたの友だよ」との御声を聞いたことがあり、開拓伝道で一向に変化が生じない時「私を信じるか」との御声が聞こえたこともありました。また、会堂が多くの人で満たされた夢を見たこともありましたが、教会の変わらない現実の中で確信が揺らぐことも屡々でした。イエスを主、キリスト、万物の主、臨在の主と信じていても、この世に生きる人間である限り、そのような弱さを持つからです。

 主イエスを信じ、救われていても人間で有る限り、そのような者であるから、パウロは信徒である読者の心の目がはっきりと見えるように、神が開いて下さるようにと祈っているのです。そうです。この手紙は教会に来ていても主イエスが信じられない人々でも、来始めた人々に向けて書かれたものでもありません。1節に「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」とあるように、主イエスを信じ、礼拝しているキリスト者に向けて書かれた手紙なのです。ですから今日の彼の祈りも、今ここにいる私達の為の祈りであるのです。その事を心に思いつつ、自分へのみ言葉として聞きましょう。

 主は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14:6)」と言いますが、私達はそれを実感してこの世で生きているでしょうか。主は弟子達に「わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい(14:10)」とも言います。主に従っていた彼らと同じような弱さが私達にもありますが、私達も信仰生活の中で多くの主の恵みを戴いています。その恵みを思い起こし、主は愛と臨在の主と確かに信じる者になりましょう。

 主イエスの愛と臨在を信じていても、人として肉体をもって生きている限り、実感しきれない弱さをキリスト者も持っていまいます。見て聞いて触れないと実感できないのです。想像し、思い込むことはできます。しかしそれは一時的なものであり、いつまでも続くものではありません。主は「見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです」と言いますが、主イエスを、その後ろ姿も見ることができないのですから、自分が見えない神の国にいると信じろと言われても信じられないのも無理ではないのです。とは言え、自分が見えない神の国にいると信じ切れた人が、大きな働きをしてきているのは事実であり、私達がいつも見えない神の国に生きているのも事実なのです。

 神の国は今は目に見えません。しかし今、私達は神の国に生きているから、それをぼんやりとでも感じているから、礼拝に来たし、礼拝しているのではないでしょうか。確信を持てなくても、自分に行動を起こさせる力が働いたのです。人は誰でも、分からない事はしたくありません。した結果がどうなるかという不安や恐れが先に立つからです。しかし、したという事はそれを乗り越えさせる力が働いたのです。力が働いたと言っても、人がするように、主イエスが私達の手を引いて教会に連れて来たのではありません。迷っている私達に声掛けをして、励ましてくれたからでもありません。教会に来れば目に見える主に会えるし、自分が神の国に生きていると実感できると確信できたからでもありません。主イエスが自分を招いているのを、ぼんやりとではあっても感じ取れたのです。そして教会に来れば、神が恵みと平安を与えて下さると思えたからです。主は目に見えなくても、共にいて、私達に関わっているのです。その主と私を繋ぐ方がいます。それが父なる神が私達に与えている御霊、助け主です。パウロはⅡテモテ1:7で「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」と言います。ローマ8:26で「御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が言葉にならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」と言います。確かに不安や恐れはあります。しかし、主は共にいるのです。目に見えないが共にいると御霊が私達に教えているのです。私達は御霊の働き掛けを、様々な時に感じ取っている筈です。或る時、心の動きを感じ、思ってもいなかった行動をしたことが有ったのでは無いでしょうか。分からないからと躊躇し、何もしないのではなく、御霊に自分を委ね、任せましょう。そうすると、それが出来ると、私達の人生は大きく変わっていきます。主が共にいること、御霊が働き掛けていることを悟ることができるからです。この悟りが重要です。理論的に判断したのでも、事実を自分の目で確認したのでもありません。自分が納得し、自分の人生をその方向に踏み出したのです。そしてその歩みの中で、そうなんだ、そうだったのかと自分が神の国に生きていると、実感できたのです。その時、心の目が開かれているのです。肉の目では見えなくても、自分の人生が大きく変わっているのです。心の目が開かれることは素晴らしいことです。自分の人生が闇ではなく、光に変わり、自分の生きる現実の真の姿が見えるからです。

 人は自分の心も相手の心も見えません。しかし心は確かに存在し、感じさせ、判断させ、自分や相手に行動を促します。将来も見えませんが、将来も必ず来ます。見えなくても分からなくても、自分も相手も将来も信じて生きています。ですから、目に見えないが共にいる主、見えないが神の国にいる自分を信じましょう。心の目が開かれる時が来ます。与えられている希望、受け継げる栄光に輝くものが確かにあると分かります。私達が信じる主は、全てを実現し、可能する絶大な力ある方なのです。以前は回心以前のパウロように心の目が開かれず霊的暗闇の中でした。今は主に結ばれて光となっているのです。心の目が開かれ、光の子として光の内を歩む者になりましょう。