メッセージ(大谷孝志師)
実を結べない人の為に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2024年5月12日
ルカ13:6-9「実を結べない人の為に」 牧師 大谷 孝志

 若い頃、「私はクリスチャン」と言うと、「そんなものに頼らなければ生きていけない程お前は弱いのか」と馬鹿にされたことが良くあった。しかし「キリスト教は弱者の為の宗教」という見方は当たらずとも遠からずではないか。とは言え、私達は決して弱虫ではない。むしろ世の中で明るく生き生きと、中には力強く生きる者もいる。それは、キリスト者は自分の弱さが、自分にはどうにもならないことを知っているから。そして私達は、自分の弱さを知れば知るほど強くなれる、世の人々にとっては、クリスチャンとは不思議な人種に見えるかもしれない。

 弱い人と言えば、旧約聖書に有る律法は、弱者への細やかな配慮を示している古代希な法律。しかし、部族の人数は男の数を記すだけ。主が行った給食の奇跡の時も、男五千人とあるだけ。生活力なく、社会の一員として義務や責任を果たせない女性や子供は一人前に扱われず、病人や障がい者も同じ。しかし主は、それら弱い立場の人々の友となり、幼子や女性を大切にし、病人を癒し、社会の一員として生きられない人の障がいを取り除き、自立への道を歩ませた。目や手足を取り替えたのではなく、本来備わっていた機能の障がいを取り除き、それを回復させただけ。主はそれらの弱い人を神の民の一員と認め、実を結べなくしている障がいを取り除いた。社会保障制度が確立されるまでは、社会は宗教家を除き、弱者を疎外した。弱者を取り込んでいては社会が維持できない危険性があった。だが日本の明治、大正期に最も弱者の為に働いたのが、クリスチャンとキリスト教の影響を受けた人達。それは彼らが主イエス・キリストのように生きたから。

 さて今日の個所の主人は神。ぶどう園の番人は主イエス。いちじくの木は私達人間。神は私達人間に実を求め続けてた。しかし、人は神が求める実を結べなかった。私達が生きているこの世でも、あの人はあれくらいなら出来る筈と思うのび出来ない人、或いは、しようとも思っていないと思える人を見ると、腹立たしくなる時が。この譬え話で大切なのは、どう頑張っても実を結べない人ではなく、実を結べるのに、実を結ぼうとしない人の意味。人は、神に喜ばれるという実を結べる。人はする気があれば、神を喜ばせることが出来ると主は教える。人が実を結ぶのではない。実を結ぶのは人。実を結べないのは人が弱いからと主は言う。実を結ぼうとしない弱さを持つから、実を結べない。しかし私達の主イエスは、なすべき事をしない人を駄目な人と切り捨てない方と聖書は教える。主はその人の為に、園の番人が木の周りを掘って肥料をやって手入れをしたように、必要なものを与え、その人が実を結ぶ大切さに気付いて、その人が実を結ぶのを待つ方。主は神に、もう少し滅ぼすのを待って下さいと願っている。ペテロ第二の手紙3:7に「あなたがたに対して滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」とある。三年間実を結べなかった木の為に、無駄かもしれないと思う木の為に真剣に願う番人のように、主は全ての人をその弱い人のまま受け入れて、必要な時に必要なものを与え、待っている方。私達も互いに、この主イエスの愛を知り、相手を大切にするとは、その人を愛するとはこういう事と知り、その人が為すべき事を知り、為せる自分に気付き、周囲の人に喜ばれる人となるよう、実を結べないと思う人と共に生き、共に神に喜ばれる者となれるよう、主の助けと導きという恵みを求め、それを戴きつつ、実を結べないと思う人と共に、その人の為に生きる者となろう。主は「私達が求めれば与えられる方」だから。