メッセージ(大谷孝志師)
偶像に囲まれた中で
向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年5月15日
使徒17:16-21「偶像に囲まれた中で」 牧師 大谷 孝志

 私達人間は、強いようで弱い存在ではないでしょうか。何かを信じていないと生きていけないからです。ですから、この世には様々な宗教が満ち溢れています。テレビを見ていると、アナウンサーやレポーターが、神社仏閣等での偶像礼拝の御利益を堂々と宣伝しています。それに不自然さを感じさせないほど、偶像礼拝は日本社会に、深く浸透しているからです。

 人は宗教を必要とし、同時に神々の力を恐れていたので、時には、偶像礼拝が歴史を左右する程の影響力を持っていました。しかし、人々がそれらを拝むのは、その素材となっている木石等が有難いからではありません。その場所が有り難いからでもありません。例えば仏像も造られただけでは拝む対象にならないのです。入魂式をした後で拝む対象になります。人々は、像の内にある目に見えない魂に力があると信じるので拝むからです。

 十戒の第二戒に「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」とあります。私達が信じる神は、人によって形作られるような方ではありません。しかしイスラエルの民も、目に見えない漠然としたものでは頼り切れない弱さを持っていたのです。人は、自分以上の力ある存在を信じ、頼っていないと不安になるからです。ですから、彼らも目に見える像を造り、それを拝んで安心しようとしたのです。しかし今でもそうですが、それらは、自分の心の投影に過ぎないので、真の平安は得られないままなのです。

 今日の個所では、パウロは同労者のテモテとシラスが来るのを待っていました。その時彼は、アテネの町も偶像が一杯なのを見て、心に憤りを覚えたのです。しかしそれは、やはり、偶像そのものにではありません。この町の人々が、自分達の状態を偶像の力によると一喜一憂していることに憤ったのです。つまり、偶像には何の力も無いことを知らずに、それらの偶像を拝み、それで安心し、満足しているその状況に憤りを覚えたのです。

 私達の周囲にも様々な偶像が一杯あるのではないでしょうか。以前、大阪の池田教会に赴任していた時、路地に地蔵尊が祀ってあって、中高年の婦人方が立ち止まり、その前で手を合わせていました。しかし何度も言いますが、地蔵尊に限らず、神社仏閣で像に手を合わせる人々は、それ自体を拝んでいるではありません。その見える像を通して自分が信じる目に見えない神仏を拝んでいるのです。また、自分は無神論者と言う人がいます。その人が、自分の金や持ち物、人に執着していたとしたら、それらの内にある力に頼っているのですから、それが目に見える像ではなくても、それもその人にとって偶像になっているのです。それがなくなったら、自分の人生が崩れてしまうかもしれないと思うからです。ここに偶像に頼ることによって生じる大きな問題があるのです。ですからパウロは、偶像を拝む人々に対して抱いた空しさ、苛立ちを伝道への情熱に転換させるのです。

 人々が偶像礼拝をするのは、意識的にせよ、無意識的にせよ、心に飢えや渇き、満たされないもの、必要とするものを感じているからです。彼にすれば、その思いが人々を縛り付けているのです。パウロは、人々をその思いから解放し、真に自由で、その人にとって安心できる人生があると知って欲しいと思い、彼は手当たり次第に議論をふっかけたと思われます。私達が世の人々を見て仕方がない、自分にはどうにもならないと思うことで済ませている事を、どうしても済ませなかったのです。何故でしょうか。

 パウロは、この人々の為に、主イエスが十字架に掛かって死に、そして復活して自分をこの人々に遣わしていると受け止めていたからです。自分を救い出した主イエスが、この人達を愛し、この人達を救おうとしている、そう思うと彼らを放っておけなかったからです。ですから彼は、会堂ではユダヤ人や神を敬う異邦人達とも論じ合ったとあります。ここを読んで、これは私にとって耳の痛い話だと感じさせられました。彼らはかつての自分のように、真の神を信じ、神に喜ばれる者でいようとして生きていました。彼は彼らに、それなのに「あなたがたはこのような偶像に囲まれているのに、彼らが神ならぬ神を拝んでいるのを、平気な顔で見ていられる。それは、主イエスを通して明らかにされた本当の神を信じていないからだ」と、彼は真っ向から福音を宣べ伝えて論争を仕掛けたのです。自分の信仰をお茶を濁さずに、自分達がこの信仰を守っていれば、それで神の喜ばれると思っている彼らに、冷水を浴びせ掛けたのです。彼自身がしっかりと主イエスに繋がっていたから、世の人々の偶像礼拝に正しい対応が出来なかったユダヤ人や神を敬う人達に、彼らの誤りを指摘できたと気付かされ、世の人々に福音を伝える務めを託されている自分なのに、世の人々の偶像礼拝に距離を取り、身を引いている自分の信仰を反省させられたのです。

 また、彼は広場に行き、そこに居合わせた人達と毎日論じ合ったのです。公園で子供を遊ばせながら親同士で談笑ししている人々や、のんびり本を読んだり、時間潰している人達に、自分が生きている信仰の良さをぶつけ、これらの偶像ではなく、真の神、救い主がいるので、それを信じて欲しいと論じ合ったのです。その彼の熱心さがアテネ市民の心を動かしたのです。興味半分であったにしろ、アレオパゴスと言う公共機関の場で福音を語る機会を彼に与えたからです。しかし死者の復活の話を聞いた人々の反応は素っ気なく冷たいものでした。しかし、信仰に入った人々もいたのです。

 私達もアテネのように偶像に囲まれた世界にいます。アテネのように、ここも神の畑と知りましょう。主イエスが私達の周囲の人々を愛し、救おうとしているのです。この人々の為に私達を遣わしているのです。彼のように、当たって砕けろくらいの思いで福音を伝えようであはりませんか。彼は嘲笑を背に彼らの中から出て行きました。しかし主を信じる人々が生まれたのです。私達も世の人々が救われる為に自分の信仰を表明しましょう。