| メッセージ(大谷孝志師) |
| 全てが新しくなった日 |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2024年5月19日 使徒2:1-13「全てが新しくなった日」 |
五旬節の日が来て、一つになって集まっていた弟子達の上に、復活の主が約束していた通り(ルカ24:49)に聖霊が彼らの上に留まりました。この日はユダヤ人にとって一番大切な祭日の過越祭の日から五十日目に当たります。この日にこの出来事が起きたのには理由があります、昔、神が奴隷生活に苦しむイスラエルの民を解放するようエジプト王に命じたのですが、王が聞き入れ無かったので、神は九つの災いをエジプト全土に下して恐れさせ、王に民を解放させようとしました。それでも言うことを聞かなかったので、神はエジプト国中の初子を殺すことにしたのです。何の罪もない初子を殺し、家族を悲惨な状態にするのです、惨い話ですが、人が神に従わないことがどんなに重大なのかを、民の悲惨さを王が目の当たりにすることで分からせようとしたのです。これを私達に置き換えるなら、神が御子イエスを十字架で殺さざるを得なかった出来事によって、人が神の意志に従わず、神に背くことがどんなに重大な事であるかを、全ての人に知らせる為の出来事なのです。ですから、初子の抹殺も主イエスの十字架の死も、単に悲惨な出来事ではなく、それによりイスラエルの民が奴隷生活から解放され、そして、全ての人が、主イエスを信じる信仰によって救われ為に必要なことだったのです。 神はご自分の民イスラエルに、鴨居と二本の柱に羊の血を塗るよう命じました。民がその通りにすると、神はそれを見て、家の入り口を過ぎ越し、その家の初子を殺さなかったのです。この殺された羊が、私達にとっての主イエスであり、その主イエスを信じることが、主が流された血を自分に塗ることになるのです。それにより、人は悪の支配から解放されます。さて、自分の初子も死ぬことにより、エジプト王はようやく、イスラエルの民を奴隷状態から解放し、エジプトから出ることを許したのです。過越祭はそれを記念する日なのです。主イエスが十字架に掛かって死んだのはこの過越祭だったのです。主が過越の犠牲の羊となって十字架に掛かって死んで流した血によって、主を信じるならその人は救われます。主イエスが、罪の奴隷状態にある人々を罪の束縛から解放し、救われるからです。 では何故、それから五十日目の五旬節に聖霊が降ったのでしょうか。五旬節が過越祭に始まる巡礼の期間の結びの祭り、新しい時への出発の日として祝われていたからです。主イエスの十字架と復活による救いの出来事が完成したことを感謝し、主イエスを信じる人々が、神の偉大な力により解放された新しい神の民として出発するに相応しい日だったのです。この日に全てが新しくなったからです。 さて、突然、激しい風が吹いてきたような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡たり、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上に留まったのです。その物音に大勢の人々が集まって来ました。その人々は、神が遣わす救い主がシオン、つまりエルサレムに現れると信じて、自分の生まれ故郷から、エルサレムに移り住む迄して、神の約束を待ち望んでいた敬虔なユダヤ人達でした。彼らは、イエスこそがメシアに違いないと期待したのですが、簡単に捕らえられたのを見て、失望し、一転して「十字架に着けろ」と叫んだ人達でもあります。弟子達は主の復活後も、彼らを恐れて家の戸に鍵を掛けて閉じ籠もっていました。 集まってきた大勢の人々は、それぞれ自分の国の言葉で弟子達が話すのを聞いて呆気にとられました。しかし、弟子達が様々な国の言葉で一斉に話し出していたら、人々は簡単に弟子達が話す言葉を聞き分けられたでしょうか。出来なかったと思います。ですから、弟子達が他の国々の言葉で話したと言うより、御霊が弟子達に語らせた言葉を、人々の方が自分の国の言葉として聞き取れたのだと私は思います。弟子達が話すのを聞いた人々が呆気にとられたことが、そこにいた全ての人々が、弟子達の話の内容を理解できたことを示しているからです。正に不思議な出来事ですが、これは、聖霊がこの時、弟子達だけでなく、物音に集まって来て、彼らの話を聞いた大勢の人々に働いたから起きた出来事だったのです。 ですからこの時、御霊が弟子達に語らせた言葉は「異言」だったと思われます。「異言」は「舌」の派生語で、舌を振動させて出す音による言葉です。パウロはⅠコリント14:23で「皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか」と言い、27節で「だれかが異言を語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい」と言います。異言は人知を超えたものなので、理解するには聖霊の助けが必要なのです。しかしこの日は特別でした。この日、その場に聖霊が満ちていたので、「あの人たちが、私たちの言葉で神の大きなみわざを語るのを聞くとは」と、人々はみな驚き当惑して、「一体、これはどうしたことか」と言い合ったからです。彼らが語る異言をその場にいた全ての人が正しく聞き分けられたのです。正に、創世記11章に記されているバベルの塔の時と反対の出来事が起きたのです。バベルの塔の話では、主が人々の言葉を混乱させ、互いの話し言葉が通じないようにしました。その時以来、人には相手の言葉を理解するのを阻む心の壁ができているのです。しかし聖霊が降臨したこの日、神が弟子達を聖霊で満たし、異言で福音を語らせ、誰もが自分の国の言葉として聞き取れるようにしたのです。神が人の心と心を隔てる壁を取り除いたからです。 しかし中には「彼らは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者もいました。するとペテロが十一人と共に立って、声を張り上げ、人々に語り掛けました。そして人々を悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けることへと導いたのです。人が互いに心を通じ合わせて理解し合え、正しい道を共に歩める新しい時が来たのです。私達も弟子達のように聖霊に満たされる時を待ち望み、祈り求め続けましょう。御心なら、私達にも聖霊が降り、聖霊に満たされるなら、自分が伝えた福音が相手の心に届き、相手の心が変わります。 聖霊降臨の日から二千年が経つ今日、今だこの世には主イエスが自分の救い主、新しい人生を与える力ある方と知らず、霊的闇の中を生きている多くの人々がいます。主はその人々の為に、私達の働きを必要としています。半世紀以上前、福音宣教の使命に燃えた人々の働きにより、多くの人々が教会に来て、主を信じて救われました。私もその一人です。私達も聖霊に満たして下さいと祈り求めましょう。主は祈りに応えてくれます。妨げる壁は高く厚いです。しかしペテロは、大胆に「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と人々に語り掛けました。かつて自分達を捕らえて殺そうと思った人々に向かって、あなた方こそが神に逆らう反逆者だと言い切ったのです。ペテロは身の危険を感ぜずに語りました。聖霊に満たされていたからです。彼にとって一番大事なのは、目の前にいる人々が救われることだからです。私達も、目の前の人が救われることを心から願いますが、どうしても壁にたじろぎます。でも、聖霊に満たされるなら、弟子達のようにその壁を越えられます。「あなたも主イエスを信じるなら救われます」と、何の恐れも躊躇もすることなく話せます。御霊が助け教え、それが今自分がなすべき、一番必要な事だと分かるからです。 人々も、聖霊に満たされていたから、ペテロの言葉を聞き、心を刺され、ペトロや他の使徒達に「私達はどうしたらよいでしょうか」と尋ねたのです。彼に「それぞれ罪を赦して頂くために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」と言われ、人々は彼の言葉を受け入れて、バプテスマを受け、三千人程の人が仲間に加わり、心を一つにして神に喜ばれる生活をしました。使徒達が大切にしていた事を、救われた人々も大切にできたのです。聖霊に満たされた人々は、全ての物を共有し、必要に応じて分け合いました。私達も聖霊に満たされ、自分が大切にしている信仰を人々に勧めましょう。そして聖霊に満たされた教会として、心を合わせて共に歩み、地域の人々から好意を寄せられ、多くの仲間が加わる教会になりましょう。私達が心から願い求めるなら、二千年前、半世紀前のように、主はこの教会に聖霊を満たし奇跡を起こして下さいます。 |