メッセージ(大谷孝志師)
私達が一番大切にしたい事
向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年5月22日
ローマ14:13-23「私達が一番大切にしたい事」 牧師 大谷 孝志

 私達は「私達」という言葉をよく使います。しかし、この「私達」でどんな人達を指しているかは、その時、その場によって違ってきます。それを聞いたそれぞれの人によっても違っている場合もあります。パウロは15:1で「私たち力のある者たち」と言いますが、それは彼が宣べ伝える福音に立って生活する力のある人達です。世の中、速く走れる人もいれば、歩くのがやっとという人、重いものを平気で持ち上げる人もいれば、出来ない人もいます。肉体的、精神的強さが人によって違うように、信仰においても、強い人と弱い人がいて当然なのです。自分に出来るからと言って、この人にも出来ると思ったら大間違いです。でも人は、つい自分を基準に相手を裁いてしまいがちです。肉体的、精神的なものは、遺伝的要素、育った環境が大きく影響します。しかし、技術的なものになると、本人の努力が大きく影響します。ですから、努力しない人、しようとしない人を見て、周りの人が苛々したり、忠告しようとしたりし、時に腹を立てたりします。

 しかし、私達は自分が人を裁けるような者ではないと知っています。自分がしたいと思うことが出来ない人間と知っているからです。パウロですら「したいと思う善を行わないで、したくない悪を行っています。(ローマ7:19)」と言っています。確かに主は「信じる者には、どんなことでもできるのです(マルコ9:23)」と言います。しかし、いくら出来ると信じたいと思っても、そうすることが正しいと分かっていても出来ないのが私達です。

 私達は主イエスを信じています。主を信じるから、相手を信じられ、将来を信じられます。しかし、信じることは自分の努力や決心でできるものではないと知っておくことが必要です。信仰は上より与えられるものなのです。信じられることは恵みなのです。素晴らしいことです。相手を信じることは、相手を愛することであり、相手に希望を持つことだからです。

 しかしどうしても、相手を愛しているつもり、希望を持っているつもりでも、主イエスを信じているなら、こう考える筈だ、こうできる筈だとの思いのほうが先に立ってしまうことがあります。自分とは違う相手の考え方、生き方に、受け入れられないものを感じてしまうのです。人間とは本当に弱いものなのです。例えば礼拝で五千円や一万円を献金出来る人もいれば、そんな事は考えたことも無い人もいます。生活水準も献金に対する考え方も人それぞれだからです。礼拝出席を何が何でも厳守する人もいれば、自由に考える人もいます。礼拝に出られないのは世に縛られているから、自由でないと考える人もいれば、礼拝厳守を主張し、出ない人を裁くのは、礼拝に縛られているので自由ではないと考える人もいます。信仰者にとって大切なのは、人に気ままさを感じた時、信仰的でないとか、あれこそ信仰的と自分で決め付けないことです。全ては主がご存じなのです。

 そんなに皆が自由気ままな教会生活をしていたら、教会という組織が損なわれてしまうと心配する人もいます。教会は烏合の衆の集まりではないので、一定の秩序は必要です。しかし、イエスを見たユダヤ人達が心配して、殺そうと相談し、十字架に付けて殺したのは、イエスの教えに自由気ままさを感じ、それを否定して、自分達が大切にしてきた秩序を守ろうとしたからです。私達は、自分が大事にしている事を守ろうと互いに裁き合うのではなく、自分も相手も神の国に生きていると信じる信仰によって、全ての物事を判断し、その信仰に立って自分と相手を見ることが大切です。

 パウロはコリント教会の人々への手紙の冒頭で、「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ」と言います。その手紙を読むと分かりますが、理想的な信徒の交わりをしている教会ではありません。でも彼らも「主イエス・キリストとの交わりに入れられた」者の群れとして,「あらゆることばとあらゆる知識において,…豊かな者とされ」ているのです。教会は人の群れですが、イエスが主として、全てを支配している群れなのです。教会が教会である為には、一人一人がその主に相応しい者、主に倣う者として生きることが大切なのです。彼は15:5で「忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように」と言います。私達は他人と同じ思いは持てません。相手の思いは想像するしかないからです。だからこそ、彼が言うように「キリスト・イエスにふさわしく」が大事なのです。自由が無秩序を産むと恐れるのでなく、私達を愛し、信頼し、あるがままで受け入れて下さる主を信じて、自分と相手を見ることです。人を信じる時、不安や恐れは付き纏います。主イエスを信じれば良いのです。その信仰を与えてと祈り求めましょう。相手と自分の強さや弱さを感じているなら、主がそれを自分と相手に必要なものとして与えていると信じれば良いのです。

 主イエス・キリストは、この教会に連なる一人一人を愛し、育てていて下さるのです。この教会がこの地に立てられた教会として、一人一人が「地の塩、世の光」となって、福音を伝える主の働き人、主の証人となることが必要だからです。人の目には成長の度合いが違って見えるでしょう。でも主は「忍耐と励ましの主」です。人の目にはどんなに違って見えても、私達を一つの群れとして、互いに同じ思いを抱かせ成長させて下さいます。私達自身が希望を見失わずに、忍耐と慰めに満ちた心で、互いを尊重しながら、共に歩めるようにと、忍耐と励ましの主ご自身が共に歩んで下さっているのです。私達は、したいと思っても出来ない弱さを持っています。しかし、一人一人がこの教会に欠かせない一人一人だから、教会に招き入れたのです。主は、私達一人一人を同じように、あるがままで受け入れて下さっています。この主の思いで互いに相手を見ることが、この地に立てられた教会の私達がその大切な役割を果たす為に最も大切なことなのです。