| メッセージ(大谷孝志師) |
| 私にあるものを上げよう |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2024年5月26日 使徒3:1-10「私にあるものを上げよう」 |
2章には誕生したばかりの教会の仲睦まじく、和やかな教会の姿が描き出されています。この箇所には、ペテロとヨハネによる「主イエス・キリストの名」によって行われた聖霊降臨後の奇跡が記されています。聖書は、聖霊降臨により誕生した教会の働きを通し、主イエスを信じる者には何が出来るのか、何をする為に私達は救われ、主の証人として福音を宣べ伝え、地の塩、世の光として世に生きているのか、それらの事を私達に教えているのです。 この世に私達と同じ人として生きた主は、目の見えない人、耳の聞こえない人、手足の不自由な人、それらの多くの人々を癒しました。主は、彼らの目や耳、手足を新しいものに取り替えたのではありません。それらの機能を失い、社会の一員として認められない人々を、主は愛し、神の民の一員として認め、受け入れ、社会の一員として働き、生きられる者とする為に、その機能を回復させたのです。私達がこの教会に連なっているのも、主イエスのように生き、したいと思っても他の人のように自分には出来ないと思い、悲しみ苦しむ人々に、あなたにも自由でのびのびとした人生が用意されている、あなたにもしたいと思うことができる人生があると知らせ、その人が新しい人生を歩む為に、主が与える力で、その人が生きる為なのだと知りましょう。 ペテロとヨハネは午後3時の祈りの時間に宮に上って来ました。そこに、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来たのです。自分らしく生きたいと思っても、物心が付いた時から自分には出来なかった人です。働くことができず、宮に入る人達に施しを認める為に、毎日「美しの門」に置いて貰っていたのです。運んでくれる人、施しを与える人に頼らなければ生きていけない人でした。彼はペテロとヨハネを見て、施しを求めました。するとペテロが「私たちを見なさい」と言いました。彼は当然、何か貰えると思いました。期待に胸が膨らんだでしょう。するとペテロは「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう」と言ったのです。ペテロは自分には、この生まれつき足の不自由な人の人生を大きく変えるものを持っていると知っていたのです。今朝の箇所は、私達も今の自分を変えたい、今の状況から抜け出したいと求めて来る人に「私にあるものを上げよう」と言えるのだと教えています。でも私達は、自分の生活、信仰を顧みて、そのようなものはないと思ってしまいがちです。ペテロとヨハネも聖霊に満たされる前は、そう思っていました。主に従い、主と共に生きていても、この世の常識、束縛から自由になれなかったからです。しかし聖霊に満たされた彼らは、神は全ての人を愛し、御心を行って下さると知ったのです。イエスは主、キリスト、救い主、全ての造られたものの支配者と自分が信じ、イエス・キリストの名によって行うなら、神は、自分達の求めに応えて、必要なものを与える方と知ったのです。その信仰こそが「私にあるもの」なのです。私達も主を信じています。私達も彼らと同じ信仰を持っています。イエスは主、キリスト、万能の主と信じています。しかし、自分の信仰を顧みてみましょう。まだ世の常識に囚われ、それに縛られて物事を判断し、行動していることはないでしょうか。 さて、この生まれつき足の不自由な人は、何か貰えると思って二人に目を注ぎました。するとペテロが「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせたのです。するとたちまち、彼の足と踝が強くなり、躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出したのです。弟子達は決して豊かとは言えなかったと思いますが、二人がこう言ったのは、施す金を持ち合わせていなかったからではありません。金銀は当面の彼の生活を保証し、安心させても、彼の為に真に必要なものは金銀ではないと知っていたからなのです。 人は金銀があれば幸せと思いがちです。しかし人生はそんなに単純なものではありません。この人を含め、全ての人に必要なのは、神が自分を愛し、必要なものを必要な時に与える方と知り、その神を褒め称えて生きることなのです。それが御心だからです。御心が行われることで、この世が真に平和になり、誰もが幸せになれるのです。ですから私達は主の祈りで「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈っているのです。確かに、生まれつき足が不自由で施しを受けなければならないのは辛いことです。しかし手足に限らず、世には肉体的、精神的に辛さ、苦しさ、不自由さを感じながら生きなければならない人は大勢います。でもその失われた機能が回復すれば、その人が幸せになれかと言えば、そうでは無いし、何億という宝くじの賞金を得ても幸せになれなかった人もいたそうです。ペテロは、彼に真の幸せを与え、周囲の人々に主イエス・キリストの存在と力と愛を示したのです。 神は私達の想像を遙かに超える方です。御心のままに、全てを自由に用いて、人にとって必要な事をする方です。神は私達を愛しています。勿論、思い掛けない事態に直面し、艱難辛苦を味わわされる時があります。しかし全ては御心であり、神が目的と理由をもってしている事と聖書は教えています。 今日の箇所もその事を私達に教えています。この男はユダヤ教徒として神を信じていたと思います。世の人々も様々な神仏を、超自然的存在を信じています。しかし、彼も世の人々も真の神を知らないのです。真の唯一の神がいて、自分を愛していることも、新しい人生を用意していることも知らないのです。神はこの彼の所に、ペテロとヨハネを遣わしたのです。私達を世の人々の所に遣わしているのです。この世の富に幸せを求めた彼に、神は直ぐ無くなるような、崩れるようなものではなく、いつまでも変わることのない、確かなものを与える為です。私達も神の恵みと平安といういつまでも変わることのない確かなものを世の人々に与えられます。ペテロ達が持っているように、私達も持っているのです。Ⅱコリント4:7でパウロは「私達はこの宝を、土の器の中に入れているのです」と言います。私達は弱く愚かで、直ぐにぐらつくような信仰の持ち主、土の器です。人は誰も同じような弱さの持ち主なのです。でもパウロもペテロも素晴らしい働きをしました。彼らが、主イエス・キリストの名によってすれば何も出来ない事はないと信じたからです。 ペテロは「イエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言いました。彼は「イエス・キリストの名はこの人を歩かせることが出来る」と信じたから言ったのです。彼はイエスをそのような方と信じたのです。神はその信仰により、彼を歩き出させたのです。私達は「キリスト・イエス」の名によって命じれば、私達が言った通りの事が相手に起きると信じているでしょうか。ペテロ達は、そう信じていたから彼に命じたのです。その通りになりました 私達も同じ信仰を持っています。私達にもあるのです。世の人は様々なものを求め、それが有ればもっと幸せになれると考えます。私達もペテロ達と同じように、世の人を変える力を持っているのです。自分を見ると到底そんなものはないと思ってしまいます。しかし、私達は「信じる者には、どんなことでもできる」と言う主イエスを信じているのです。ペテロは「私にあるものを上げよう」と言い、この人の人生を変え、彼を見た人々を驚かせました。もし、私達の周囲にいる人が助けを必要としていたら、全ての人を愛する主が、私達を通してその人を救おうとしていると考えましょう。私達もその人を助ける力、必要に応えるものを持っているのです。私達はその人の求めに応えられると信じればよいのです。私達も「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。主があなたを助け、求めに応えて下さいます」と話し掛けましょう。私達の言葉が、その人に自分が変わる切っ掛けを与えるのです。主の名にはその力が有ります。主だからです。 |