メッセージ(大谷孝志師)
人は正しい生き方を求めます
向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年5月29日
ピリピ 1:1-18「人は正しい生き方を求めます」 牧師 大谷 孝志

  人は誰でも、自分の生き方を模索する時があるのではないでしょうか。特に人生の岐路に立たされた時は、迷い、悩みます。誰も間違った生き方をしたいとは思わないからです。しかし、正しい生き方をしたいと思っても、自信を持てないのが現実です。何が真実か分からないし、良いと思う道を選択したとしても、将来どうなるかも分からないからです。とは言え、時間が限られ、決断を迫られると、迷いながらも今の状況の中で何が正しいかを決めなければなりません。また、人は充実した人生を願い求めます。他の人々と良好な関係を持ちたいと願うからです。家族や友人と角付き合わせるような人生はご免です。相手に背を向けられたら、いたたまれなくなってしまいます。とは言っても、人は一人で生きているのではないので、どうしても他人との関係で様々なトラブルを経験せざるを得なくなります。

 何故、人は対人関係に摩擦を生じさせたりするのでしょう。自分の生き方に執着するからです。人は家庭環境や自分が接する友人や先生の影響に無意識的に縛られ、その関係の中で自分の人生を築いてきているのです。人は、自分にとって一番大事なのは自分なのです。口では相手の為と言いながら、結局は、自分の為に生きているのが、私達人間の現実なのです。

 この手紙の読者は信仰の篤いキリスト者です。この手紙を書いたパウロは、多くの教会と関わりを持っていました。その中でも、「あなたがたはみな、私が投獄されているときも福音を弁明し立証しているときも、私と共に恵みにあずかった人たちであり、そのようなあなたがたを私は心に留めている。」と言う程、彼はピリピ教会とは親密な関係にありました。しかし、この教会の中にも「利己的な思いや虚栄心から」物事を決めてかかる人もいました。キリスト者は、主イエスを信じているので完全な人間になっているかと言うと、そうではないからです。完全でない自分を知り、完全を目指そうとしているのが、真のキリスト者なのです。人は誰も欠けた部分、弱い部分を持っています。その欠けた部分、弱い部分を自覚することによって、人は真の意味で自分らしく生きられるのです。例えば、私の最初の妻が亡くなった時、子供達に「お母さんがいなくなるのは寂しいことだが、その悲しみを知ることによって、悲しんでいる人、助けを必要としている人のことを自分の事のように考えられ。助けることができるようになれるよ」というような事を話した記憶があります。二人は高校生の時に、主イエスを信じてバプテスマを受け、キリスト者になりました。娘は今も幼稚園の先生をし、息子は特別養護老人ホームの中の軽費老人ホームの施設長をしています。勿論完全な人間ではありません。しかし精一杯他の人の為に生きていると、私は思っています。身近な例ですが、自分の弱さや欠けた部分を経験することで、他人を思いやれる人になるのではと思います。

 人は正しい生き方、良い生き方を求めています。しかし残念ながら、その基準が自分なのです。ですから、その正しさがぶつかり合ったりすると、時には傷付け合いに発展することもあります。これは言ってはいけない事と分かっていても、つい、口からひどい言葉が出てしまうこともあります。相手やそんな自分に苛立ち、悲しい思いになります。勿論、黙っていれば良いのでしょうが、それでは自分の内にストレスが溜まっていくだけです。そして、限界を超えると爆発し、余計にひどい結果になってしまいます。

 ではストレスを溜めずに正しい生き方、良い生き方ができるようにするにはどうしたら良いのでしょう。人は、自分の欠点を指摘されるのは苦手です。自分のプライドを傷付けられたと、敏感に反応してしまうからです。ですから、自分が自分である為に、自分の欠けた部分、弱い部分は極力隠そうとします。しかしそれでは、正しい生き方、良い生き方を求める前向きの人生ではなく、後ろ向き、埋もれたままの人生になってしまいます。結局は、自分らしい自分になれない自分に苛立ち、落ち込んでしまいます。

 パウロは、主が「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」と、古い自分から自由になる、正しいと思える新しい生き方の模範があると教えます。この主の生き方こそが模範なのです。しかも、これは単なる模範ではありません。私達が同じ生き方が出来るようにと、ご自身の生き方、死に方を通して模範を示し、道を開いて下さったのです。

 何故彼はここ迄、主の十字架の死を強調するのでしょう。人は主を信じていても、利己心や虚栄心に支配されているからです。私達も自分が正しいと思う事は、他の人にも正しいと思ってしまいます。親は子を見て、こうなって欲しいと思います。子の為を思うからですが、子はそれが違うと思うと、親は分かってくれないと反発します。教会の中でもそれと同じ事が起きる場合があります。相手の主張をそのまま受け入れれば争いは起きないのですが、利己心、虚栄心があるから自分大事になりぶつかります。

 主は、人をそのような自分から解放する為に「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」と教えたのです。十字架の主を仰ぎ見ましょう。主の愛に触れると心が解放され、自分を愛するように相手を愛せるようになります。主がこの私を愛し、受け入れていると知るからです。 私達も「同じ思いになり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして」共に生きたいとは思います。でもその実現の為には、この「同じ」が必要なのです。何と同じでしょうか。自分でも相手でもありません。「主イエス」と同じなのです。お互いに主のように生きることです。正しい生き方をしようと思っても出来ない弱さを持つ私達だからこそ、主は「わたしに留まっていなさい」と言います。主の愛に留まっていましょう。自分も相手も今のままで安心と思えます。互いに受け入れ合い、共にいられるのです。主が助け、この正しい良い生き方を私達にさせて下さるからです。