メッセージ(大谷孝志師)
神に聞き従う者になろう
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年6月2日
使徒4:5-22「神に聞き従う者になろう」

 使徒の働きの前半には、私の心に残るペテロの力強い主の証人としての言葉がいくつも記されています。今日の個所の4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私達が救われるべき名は人間には与えられていないからです。」そして4:19の「神に従うよりも、あなたがたに従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。」もそうです。パウロが言うように、「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」です。ですから、私達は、「日本バプテスト同盟信仰宣言」の最初に「わたしたちは聖書を信仰と生活の唯一の基準とします」と宣言しています。この「唯一」が大切なのです。ペテロは、民の長老達、長老達に「イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならない」と命じられました。この時ペテロとヨハネは、自分達が信じる神に従うか、この世の権力を持つ民の長老達に従うかの選択を迫られました。私達もこの世に生きている限り、世の人々の要求、要請に従うか、神に従うかの選択に迫られる時があります。この世の圧力は強いので、跳ね返すのは大変です。しょうがない、仕方がないと、世に従ってしまうことが多いのではないでしょうか。では何故、ペテロとヨハネはその強大な圧力を跳ね返せたのでしょうか。この世界を支配する全知全能の父なる神を信じているからです。彼らは自分達がその神の国、神が全てを支配する世界に生きていると知っているのです。この事実を知ることが私達にとっても必要です。

 私達は主イエスを信じています。主イエスを信じれば救われるから、福音を宣べ伝えています。家族、友人知人に「主イエスを信じれば救われますよ」と語り掛けています。でも、主イエスをどんな方と信じているでしょうか。そもそもイエスが自分の主でしょうか、パウロは自分を「キリスト・イエスのしもべ」とこの教会の人々に紹介しています。「しもべ」は漢字で「僕」と書きます。しかし僕は単に、家の主人の為に仕事をする家人、家の人ではありません。僕はギリシア語で「奴隷」を意味する言葉なのです。主人に絶対的に服従しなければなりません。私達は主イエスをそのような自分の主人として従っているでしょうか。主はヨハネ15:15で「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたに知らせたからです。」と言います。私達は神に「わたしたちの父よ」と呼び掛けて祈ります。「イエス様」と友達感覚で呼び掛けるような気持ちで祈っています。しかし、主はその前の14節で「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です」と、イエスの友となるには条件があると言います。私達は、主イエスの奴隷となることによって、主の友となれるのです。そして主の奴隷となることは、マルコ8:35で主が命じるように「自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従う」ことです。更に主は「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音の為にいのちを失う者はそれを救うのです。」と言います。主を信じることが自分が救われることですが、それは同時に、主の為、福音の為に自分の命を献げることなのです。ペテロも主イエスに言われた時、主の為、福音の為に、自分にも出来ると思いました。しかし、ゲッセマネで主が捕らえられた時、彼も皆と一緒に主を見捨てて逃げてしまったのです。その彼らが、主の十字架の死と復活、そして聖霊降臨により変えられました。彼らはそれらを経験し、更に聖霊に満たされ、父なる神とイエスがどんな方であり、自分達が主の奴隷であると、聖霊の助けによって知り、変えられたのです。私達も十字架と復活の主の御前にいる自分を聖霊によって知るなら、彼らのように変わり、神に従うことを第一に出来ます。

 しかしその為には、私達自身がしなければならない事があります。それはこの出来事だけでなく、聖書に記されている主が行った様々な奇跡、そして、主が十字架に掛かって死んだが、三日目に霊の体に復活したことを事実と認めた者として、自分がそれらの事実の証人となってこの世に生きることです。

 先週と今日、聖霊降臨後の出来事を通して学んでいますが、ここには「信じる」「信じなさい」という言葉がないことに気付きました。起きている事が事実として書かれているからです。フィクションではなく、ノンフィクションなのです。ある真実を知らせる為に造った架空の話ではなく、約二千年前に事実起きた出来事なのです。神が、私達にこれらの出来事が起きたと知らせる為に書かれたのです。私達が、神に受け入れられる者、神に喜ばれる者となることを願い、使徒達が神の国、神が全てを支配する世界に生きているから、このように出来たと知らせているのです。それは、主を信じていても、この世の悪の力に支配され、この世の現実に心を奪われ、右往左往しがちな私達だからです。肝心な時に、神に聞き従う者になれないからです。神の国に生きているのだから、彼らのように生きられると気付かせる為なのです。

 さて、ペテロとヨハネは、ユダヤの最高法院の議会に引き出され、その真ん中に立たされました。議員達は「ペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた」と13節にあります。二人には一片の恐れも感じられなかったからです。ここも神の国と知っている彼らには恐れる必要がなかったのです。私達も自分が神の国に生きていると知るなら、この世からの様々な要請に聞き従うのではなく、何者も何事も恐れることなく、神に聞き従うことが出来ます。しかし、神の国に生きていると知る為には、自分が神の国に飛び込むことが必要になります。使徒達は自分達が目には見えないが神の国に生きていると知っています。主イエスと生活を共にし、十字架に付けられて死に、神がよみがえらせた主イエス・キリストの目撃証人です。しかし私達は地上に生きた主と生活を共にしていないし、十字架と復活の目撃証人でもありません。だからこそ、主は神が助け主、真理の御霊を与え、共にいるようにして下さると教えたのです。私達が聖書を読み、祈り、礼拝し、神に心を向ける時、御霊が私達を助け、霊の目を開かせ、自分が神の国にいると実感させてくれるのです。この実感に敏感になりましょう。自分が神の国にいると実感できるなら、ペテロのように「主イエス・キリスト以外に救いはありません」と確信をもって世の人に伝えられます。確かに、ペテロが「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言い、生まれつき足の不自由だった人の右の手を取って立たせると、彼が歩けるようになったような、議員達が二人に返す言葉もなかったような奇跡は行えないかもしれません。私達が経験している主の恵みの殆どは、その証を聞いた人々に「偶然だよ、あなたの思い込みだよ」と言われるだけかもしれません。しかし私達がどう思うとも、私達は見えない神の国に生きています。見えるものにでなく、見えないものに目を注ぎましょう(Ⅱコリント4:18)。

 礼拝や集会に出席して自分を顧み、見詰め直しましょう。そここそが神の国です。私達は主イエスが共にいるのを感じ、父なる神に呼び掛けて祈っています。御霊が一人ひとりを助けているからです。その主は、私達が世にいる時も共にいます。今年の主題聖句「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」を心に刻みましょう。私達はそれが出来ます。

 神が全てを支配する世界、神の国に飛び込みましょう。主が「見よ、今は恵みの時、今は救いの日」「恵みの時に、私はあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける」と約束しています。私達も神に聞き従い、自分が見た事、聞いた事を人々に話しましょう。どこにいても、私達は神の国にいるからです。