メッセージ(大谷孝志師)
主イエスをこの胸に
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年6月9日
ヨハネ12:1-11「主イエスをこの胸に」

 受難節、復活節と続き、第2週のヨハネの福音書からの学びを休みましたが、久し振りにこの福音書を通して学びます。実はこの礼拝で、全国女性会年会で使う讃美歌を用いると前月の役員会で決めましたので、これらの讃美歌を使うことを御心と信じ、話をさせて頂きます。1節にあるように主イエスの親しい友ラザロが、死後四日目に眠りから覚めて埋葬された墓から出て来た後の話です。「ナルドの香油」の話として有名ですが、「主イエス・キリストをこの胸に迎えよう」との題で、皆様に勧めをし、励ましたいと思います。

 聖書に書かれている事は、この世の常識では考えられない事ばかりです。ラザロの話もそうですが、主イエス・キリストが十字架に掛けられて死んだけれど、その三日目に霊の体によみがえり、四十日後に、使徒達が見ている間に天に上げられ、雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなったのも、教会に来て、初めてその話を聞いた時、私にはとても信じられませんでした。でも、教会の人達は本気で信じていたし、今は私自身も事実と信じています。

 ベタニアはラザロとマルタとマリアの姉妹の家です。この町はエルサレムに近く、主がエルサレムに来る時には、彼らが主を迎え入れていた家でした。夕食の用意がされ、そこにはイエスとラザロがいて、彼はイエスと共に食卓に着いていた人達の中にいたとごく自然に書かれています。同席した人々にはラザロがよみがえったことは否定できない事実であり、彼らも主イエスがいる所には全てを可能にする神が共にいて、それをしたと信じたからです。

 そこにマリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ、約30㌘を取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭ったのです。家は香油の香りで一杯になりました。自分の大切な兄弟ラザロを再び世に生きる者として下さった主への溢れるばかりの愛がここに現されています。自分の大切な家族が滅びから主イエスに救われて、神の国に共に共に生きる者となる喜び、それがどんなに素晴らしいものかが、ここに象徴的に描かれているのです。

 しかしそこで、弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言います。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と。主イエスを信じ、救われた私達の言動への世の人々の思いがよく現れています。私の父もクリスチャンになる前、謡曲の観世流の名誉師範の称号を戴き、二つの会の主宰者でした。自宅に能舞台も造りました。その為にかなりのお金を使い、礼拝にも殆ど出席しませんでした。私が教会の奉仕に頻繁に出かけるようになると「そんな事ばかりしないで、少しは家の事をしたらどうか、母さんも助産師の仕事で大変なんだから、少しは助けたら」と時々言われました。一理はあります。しかし私にとって教会でする奉仕がどんなに大切で喜びになっているかは理解できなかったのです。しかし後年、クリスチャンになり、私が茨城県の牛久で開拓伝道を始めると、約1時間を掛けて礼拝に夫婦で出席し、大きな励ましを与えてくれました。信仰の喜びは、主を信じないと判らないものなのです。このマリアのように冷たい批判を浴びることもあります。しかし彼女のように、自分の信仰の喜びを主に仕えることで表して行けば良いと教えられます。その家が香油の香りで一杯になったように、キリストの香りが自分の周りに溢れているのです。

 パウロもⅡコリント2:14で「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストの凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。」と言います。私達が主イエスを信じ救われているのは、このキリストの香り、主イエスを信じる者に与えられるこの喜びを人々に伝える為と知りましょう。

 6節に「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心に掛けていたからではなく、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった」とあります。ここまでは行かなくても、外面と心の内が違う私達人間の姿が如実に現れています。人は助け合わなければと分かっていても、現実は違います。私の昔の家は「とんとんとんからりととなり組」の歌にあったように長屋住まいで、水は長屋入り口の共同水道しか無く、両隣とはベニヤ板で区切られているだけでした。ですから、近所付き合いでは隠す必要が無く、人情が厚く、隣同士で助けられたり助けたりの生活でした。しかし中学生になると、善意だけでは生きられない現実に度々直面するようになります。結局は、自分が一番大事なので、自分も相手も仮面を被らざるを得ないと分かってきたからです。このユダも他人のことを心に掛けているような振りをしながら、自分のものは自分もの、人のものも自分のものという生き方をしていたのです。勿論主も、それは分かっていましたが、主は彼の罪を暴き立てません。ただマリアの行為の意味についてだけ、彼に教えます。ここで私は、人がこの世で犯している罪について教えられました。神は人が犯す罪をご存じです。神が御心を行う為に必要な時はその事を教え、正しい道を示し、歩ませます。しかし多くの場合、主は人の樹種生を重んじるので人が自分の罪を知り悔い改め、主に罪赦され、人として正しく生きる者として頂くのです。主は「だれも滅びることなく、全ての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」からです。今は何事もないような日々と感じている世の人々が多いと思いますが、それは「不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれている」に過ぎないのです。ですから、今年度の主題聖句のようにこの世の人々に「みことばを宣べ伝えなさい」と主は私達に命じているのです。

 主は彼に「そのままにさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです」と言います。主はマリアの行為を自分の基準で判断したユダに、その意味を教えたのです。私達も自分がした奉仕のことで、世の人々から「そんな事をせず、別な事をした方が良い」と忠告される時があります。しかしそんな事で怯む必要はありません。私達が主の為にしていることを主が知っているからです。それがその時に必要な事だったことを、いつか世の人に知らせてくれる、理解させてくれると信じれば良いのです。私達は主イエスを信じ、私達への主の愛を戴き、主は必要な時に必要なものを与えるとの希望を持っていられるからです。ですから必要だと思った事をすれば良いのです。出来ないと思ったら、させて下さいと主に祈り求めれば良いのです。私達はその主を信じてこの世に生きているからです。

 主は続いて「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」と言います。主は「あなたがた」と言います。ですからこれは主と食卓を共にしていて、マリアへのユダの忠告を聞いていた人々への言葉です。私達への言葉でもあります。私達にはこの世の人々に福音を、主イエスの十字架と復活の出来事の意味を伝える大切な務めがあると主は教えているのです。主がこう教えていると、大勢のユダヤ人の群衆がそこにイエスがいると知ってやって来ました。イエスに会う為だけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見る為でした。私達の使命は、キリスト教、教会に興味を持つ人々に、主イエスを信じることによって変えられた私達の姿を示すことなのです。主イエスは見聞きできません。私達は、「さらに地の果てまで、わたしの証人となります」と主が言った通り、その主イエスがどんな方かを明らかにする「主の証人」なのです。 私が主イエスをどんな方と信じ、私に何をしたかを思い出し、世の人の為に、十字架に掛かって死に、復活して共にいて、世の人を愛して止まない主イエス・キリストをこの胸にしっかりと迎え入れて世に生きる者となりましょう。