| メッセージ(大谷孝志師) |
| 主の恵みは無尽蔵です |
| 向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年6月12日 I列王記 17:1-16「主の恵みは無尽蔵です」 牧師 大谷 孝志 |
ここに登場するエリャは、BC900年代のイスラエルのアハブ王の時代の預言者です。16章の最後に書かれているように、アハブはバアル神の為に神殿を造り、その妻アシュラの像も造り、イスラエルの神、主の怒りを引き起こすような事を行ったのです。主はエリヤを遣わし、王が怒ることを承知で、「主は生きておられる。わたしの言葉によらなければ、ここ数年間、露も降りず、雨も降らない」との主の裁きを告げさせます。彼は主に命じられた通りにしました。彼は王に命を狙われるとしても、安心して主に従い、王に戦いを挑んだのです。主は、彼に身を隠せと言いますが、彼に示したのは、豊かな生活ではなく、川のほとりで川の水を飲み、カラスが運ぶパンと肉を食べる生活でした。主は無尽蔵な冨を持つのですから、もう少し良い生活をさせても良いのではと思いますが、主は人に、主に祈り求めることを忘れない状況を与えられるのです。無いということも祝福なのです。それを知るから、キリスト者はこの世の中でも強い生き方ができるのです。 暫くすると雨が降らなくなり、川が涸れると、主は寡婦の所に行けと、豊かとは言えない寡婦に命じて、彼を養うようにしていると主は言います。彼は彼女の所に行き、会うと少しの水と一口のパンを所望します。すると彼女は「あなたの神、主は生きておられます。」と言います。彼女は主に養う必要がある人が来るのを知ってはいます。しかし、自分を見るととても養えられないとしか思えません。私達も「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とのみ言葉を信じています。しかし自分の現実を見ると御言葉通りになるのとはとても無理と思います。 彼女はかめの中の一握りの粉と壺の中の僅かな油でパンを作り、それを食べて死のうとするしかない貧しさの中にいました。しかし、エリヤに「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、先ず私の為に小さなパンを作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたとあなたの子どものために作りなさい。」と言われ、その通りにします。自分達の為でなく、主が命じた人の為に最初に使い、その後、主が補充する小麦粉と油で自分達の為に作ったのです。自分のものを自分のものとせず、主のものとして聖別し、主の為に用い、そして主が新たに与えたものを感謝して戴くことが主を信じる者の生き方と聖書は教えます。 私達のものは全て主のものであり、それを主に返すつもりで喜んで人に分け与えることが信仰生活において大切です。自分のものは主が自分に与えた神のものと思う時、見えるものの少なさ、無さに悲観することなく、全ては主のもので、必要な時に私に与えると信じるなら、今を将来に向かって安心して生きられます。このような視点を持つことができるところに、主イエスを信じて生きるキリスト者の素晴らしさを見ることができます。 その為には自分が自分で自由に使えるものを、これは主のものと自分に宣言すること、自分との間に距離を取ることが大切になります。エリヤはこの寡婦に、先ず私の為にパンを作り、私の所に持って来なさいと言いました。自分のものへの執着が、人を神から、他の人から引き離し、関係を壊してしまう切っ掛けになるのです。私は子供の頃、小遣いの残りや母から貰った一円玉を引き出しの中に貯めました。四千円以上になった記憶があります。一円で飴玉二個が買えた時代です。しかし、親が失業した友人の為に緊急に使いたいので渡して欲しいと言われたのです。私が働いて得てお金ではありません。父が働いて得たお金で、元々は父のものです。とは言え、私が欲しいものを買わずに溜めておいたお金です。執着は正直ありました。しかし、どうしても友人に今必要で、返せる当てはない。でもそれが無いと大変困った事態になると言われ、親に全額を渡しました。親のものを親に返し、親が友人に与えたのです。これは今の私達にとっても大切なことだと気付かされました。私達が持っているものは全て神のものであり、それを神に返すつもりで、喜んで人に分け与えることが信仰生活において大切なのだと改めて考えさせられたからです。勿論、そんな事をしていたら自分や家族の生活がめちゃめちゃになってしまう、と思うかもしれません。しかし、エリヤはそれを寡婦に要求し、彼女がそれに応えたのです。彼女は「あなたの神、主は生きておられます」と彼に答えました。彼女は彼の信仰を共有したのです。彼の神、主が自分にも生きている方と信じたのです。とは言え、彼と同じ信仰を持っていたのではありません。ですから、彼の要求に自分には答えられない自分ですと言う以外になかったのです。彼は、神には全てが可能である世界に生きていました。御言葉通りにすれば実現するとしていました。だからこの貧しいやもめに一口のパンを求めたのです。しかし、主にそうしろと言われても彼女には、全く不可能としか思えず、御旨に応えられない自分のことを思い恐れたのです。 彼はその彼女に「恐れてはいけません」と言います。あなたは自分の思う通りのことをして良いのです。でも、その前に自分のものに対する見方を変えなさいと教えます。自分のものを聖別し、主のもとして献げなさいと命じたのです。彼女は自分を主に明け渡しました。明け渡すとは決断であり、努力であり、聴従です。主はそれを求め、それを喜ばれたのです。結果、彼女のかめの中の粉は尽きず、壺の油もなくならなかったのです。 主は御言葉に聞き従う者に無尽蔵の恵みを与え、今を楽しみ、将来を楽観させます。楽観するのは、単に主任せの生き方をするのではありません。それでは結局、自分の好き勝手な生き方に陥ってしまいます。自分を主に明け渡す決断、御言葉に従う努力の実践に立って、全てを楽観するのです。楽観こそが主の恵みへの応答です。自分を主に明け渡し、主が一番良い事をして下さると信じ、先の事を楽観して日々を過ごす者になりましょう。 |