メッセージ(大谷孝志師)
世界で一番頼りになる神
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年6月16日(広島平和キリスト教会でのメッセージ)
使徒17:16-34「世界で一番頼りになる神」

 私達人間というのは、強いようで弱い存在だと私は思います。何かを信じていないと生きていけないからです。ですから、この世には様々な宗教が満ち溢れています。テレビを見ていると、アナウンサーやレポーターが、神社仏閣等での神仏の御利益を堂々と宣伝しています。それに不自然さを感じさせないほど、様々な宗教が日本社会に、深く浸透し、日本人の精神性に大きな位置を占めています。人は宗教を必要とし、同時に神々の力を恐れていたので、時には、それらの神や仏の意志を伝える人が、歴史を左右する影響力を持つこともありました。しかし、人々がそれらを信じるのは、その素材となっている木石等が有難いからではありません。置かれている場所が有り難いからでもありません。例えば仏像も造られただけでは拝む対象にならないのです。入魂式をした後、拝む対象になります。人は、像の内にある目に見えない存在に力があると信じるので拝むからです。

 旧約聖書の出エジプト記20章に、私達も大切にしている十戒があります。その第二戒に「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」とあります。私達が信じる父なる神様は、人によって形作られるような方ではないからです。しかしイスラエルの人々も、目に見えない漠然としたものでは頼り切れない弱さを持っていたのです。出エジプト記32章を見ると、彼らは黄金の子牛の像を造り、「これがエジプトの地から導き出した神々だ」と言って、その前に祭壇を築いたのです。人間は、自分以上の力ある存在が目に見えないと不安になるからです。ですから、彼らの歴代の王達の中には他の国々の神々の偶像を造り、それを拝んで安心しようとし、神の激しい怒りを下された王もいました。しかし今でもそうですが、それらの偶像礼拝は、自分の思いや願望に過ぎないのです。それは像はただの像に過ぎないので、その人々が望む神の恵みと平安は決して得られません。しかしそれでも、新年や神社仏閣の祭日には、大勢の人々がお参りに出かけているのが現実なのです。

 今日の個所のパウロは、三回伝道旅行をし、それにより、各地に神の教会が建てられ、それらの信徒に与えた多くの手紙が新約聖書の中に置かれています。彼は第二回の伝道旅行でギリシアのアテネを訪れ、そこで、同労者のテモテとシラスが来るのを待っていました。その時彼は、アテネの町に様々な神々の像、偶像が沢山あるのを見て、心に憤りを覚えたのです。しかし、偶像そのものにではありません。この町の人々が、自分達の生活の中で起きた事を偶像の力によると信じ、一喜一憂していることに憤ったのです。つまり、偶像には何の力も無いことを知らずに、それらの偶像を拝み、それで安心し、満足しているその状況に憤りを覚えたのです。私達の周囲の人々も様々な宗教を信じ、それらの神仏を拝んでいます。以前、大阪の池田教会の牧師をしていた時、近くの路地に地蔵尊が祀ってあり、中高年の婦人方が立ち止まり、その前で手を合わせていました。しかし何度も言いますが、地蔵尊に限らず、神社仏閣で像に手を合わせる人々は、それ自体を拝んでいるではありません。その目に見える像を通して自分が信じる目に見えない神仏を拝んでいるのです。

 また、自分は無神論者と言う人がいます。その人が、自分の金や持ち物、人に執着しているとしたら、それらが内に持つ力に頼っているのですから、それが目に見える像ではなくても、それらの金や物もその人にとって偶像になっているのです。それがなくなったら、自分の人生が崩れてしまうかもしれないと思うからです。実は、ここに偶像に頼ることによって生じる大きな問題があります。ですからパウロは、偶像を拝む人々に対して抱いた空しさ、苛立ちを、伝道、真の神、イエス・キリストを信じる信仰へ導く情熱に転換させ、彼らに立ち向かい、福音を宣べ伝えた始めました。

 人々が神や仏を信じ、お参りするのは、意識的にせよ、無意識的にせよ、心に飢えや渇き、満たされないもの、必要とするものを感じているからなのです。パウロに言わせれば、その思い、欠乏感がアテネの人々を偶像に縛り付けているのです。17節を読むと、彼は人々をその思いから解放し、真に自由で、その人にとって安心できる人生があると知って欲しいと思い、手当たり次第に議論を仕掛けたのです。何故でしょうか。彼はこの人々の為にも、主イエスが十字架に掛かって死に、そして復活して自分をこの人々に遣わしていると受け止めていたからです。自分を救い出した主イエスがこの人達を愛し、この人達を救おうとしている、そう思うと彼らを放っておけなかったのです。

 パウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う異邦人達と論じ合ったとあります。この人々は、かつての彼のように、ユダヤ教徒です。先祖伝来の信仰を堅く持ち、それが正しいと信じていました。皆さんの周囲の人々はユダヤ教徒ではないでしょうし、時々町で独特の服装をしたイスラム教徒を見掛けることがあると思いますが、皆さんの家族、友人知人もイスラム教徒でもないと思います。私の両親はクリスチャンではなかったので、仏壇があり、その前で手を合わせて先祖の霊に祈っていました。私にも教会に行くまでは、両親が座ってお祈りしなさいと言うので、同じようにしました。元旦のお日様や神社でも手を合わせて祈りました。別に嫌ではなく当然のようにしていたのです。

 アテネの町にいたユダヤ人と神を敬う人達に、パウロは、自分の信仰をお茶を濁さずに、真っ向から主イエス・キリストの福音を宣べ伝えて論じ合いました。今の信仰を守っていれば、それで神に喜ばれると思っている彼らに、冷水を浴びせ掛けたのです。人は誰も、自分は神を信じているので、心が落ち着き、平安に日々を過ごしてると思いながらも、何かもめ事が起きると自分の知恵と判断力で対応し、喧嘩別れをしたり、自分を抑えて、納得できなくても渋々、相手の言う通りにしているものです。それで、仕方がないと、我慢ができる限り我慢しているだけでは、ストレスが貯まるだけではないでしょうか。しかし、パウロは真の神を信じる信仰は、そういう生き方をさせるものではないと知っていました。そして町の人々が、様々な偶像に自分を任せているのを、見て見ぬ振りをしながら、そのままで放って置く彼らを我慢できなかったのです。主イエスを信じ、その主が自分と共にいると知り、その主が全てを知り、全てを可能にする力ある方と信じるなら、彼らも変わることができると信じて、ユダヤ教の会堂に行き、ユダヤ教徒の人々と論じ合ったのです。それが主イエス・キリスト信じる私達の生き方であり、主が喜ばれる生き方であると知りましょう。

 さて、パウロは広場に行き、そこに居合わせた人達とも毎日論じ合ったと書かれています。私達でいえば、公園で子供を遊ばせながら親同士で談笑ししている人々や、のんびり本を読んだり、時間潰している人と論じ合ったようなものです。人々の日常生活の中に自分の方から飛び込んで行き、福音を知らせたのです。彼自身が生きている掛け替えのないその信仰の素晴らしさを知っているからです。それを知らせ、人々が考えている神々ではなく、真の神、救い主がいるのを知らないだけなので、その神、主を信じて欲しい、イエス・キリストは十字架に掛かって死んだけれど、よみがえって今も生きています。イエスを救い主、自分の主と信じるなら、私達のような生き方が出来ると知って欲しいと、彼らと論じ合ったのです、その彼の熱心さがアテネ市民の心を動かしました。

 私は今、尾道刑務支所という国家機関で受刑者の方々に堂々と福音を伝えています。明治時代に受刑者も人として心の平安を保てるよう教える人が必要と政府が定め、最初は公務員でしたが、戦後は、民間の宗教家の人々の思いが国を動かし、国から要請を受けて教誨が行われているのです。

 パウロの場合、話を聞いた人々は、彼が何が言いたいのかは分からなかったようです。でも、他国の神々の宣伝をしていると分かった人もいました。そして、興味半分であったにしろ、アレオパゴスと言う公共機関の場で福音を語る機会を彼に与えたのです。彼は真の神がいる事、その神がどんな方で、全ての人を自分の子供達としている方と話したのです。誰でもその神に心を向け直すなら、神に受け入れられ、神と共に生きられます。それが確かな事だということをその救い主を死者のなから復活させた神が、私達をその証人として、今皆さん名前に立たせていると、分かり易い言葉で話したのです。パウロから死者の復活の話を聞くと、或る人は嘲笑い、また他の人達は「その事については、もう一度聞くことにしよう」と体の良い断りの言葉を残して去りました。彼が懸命に心を込めて話したのですが、アテネの人々の反応は素っ気ないものでした。しかし、ある人々は彼に付き従い、信仰に入ったのです。「その中には、アレオパゴスの裁判官ディオヌシオ、ダマリスという女の人、その他の人達もいた」と書かれています。以前奉仕した岡山刑務所では、年に何人かがキリスト教の教誨師のお話を聴いてクリスチャンになりました。尾道刑務支所でも今月の集合教誨に11名の方が集合教誨を受け、一名が個人教誨をうけました。岡山でも一人でしたが、個人教誨を受けてクリスチャンになった方がいます。どこにいても私達には福音を伝える機会が主に与えられているのです。その機会を通して、私達が信じるイエス・キリストという方の存在を少しでも世の人々に身近に感じて頂き、自分にも新しい生き方が出来ると思って頂ければ素晴らしいです。

 アテネには様々な神々の像が飾られていましたが、私が今いる尾道にも多くの神社仏閣が有り、それのお祭りも行われ、宗教の町と言えるほどです。偶像に囲まれた世界にいます。しかし、真の神、世の人々はそう思わなくても、天にいる全ての人の父なる神、そして救い主である主イエスは、その人々を愛し、救おうとし、私達を遣わしているのです。私達はその人々との間に目には見えない高く厚い壁を感じる時があります。でもパウロは、当たって砕けろくらいの思いで福音を伝えました。主はどこにいても共にいます。私達が福音を伝え、主の証人となるのを待っています。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。(エレミヤ29:11-13)」とあります。この御言葉は真実です。主が与える将来を信じ、希望を持って主の証人として世に生きましょう。主は言います「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます}と。