| メッセージ(大谷孝志師) |
| 自分を制する人になろう |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2024年6月23日 ヤコブ3:1-18「自分を制する人になろう」 |
この手紙を書いたヤコブは、エルサレム教会で指導的役割を果たした主の兄弟ヤコブの説が最も有力です。ヨハネ7:5によると、彼も最初はイエスを信じなかったのです。しかし主の復活後、信じる者になったと考えられています。彼は1節で「多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しい裁きを受けます」何故なら、「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです」と言います。この言葉に、彼のその過去が反映していると考えるなら、この手紙をより深く味わえると思います。 神の教会である教会、伝道所の中には、無牧の教会もありますが、牧師、伝道師、宣教師といった教師がいるのが、本来の姿です。教会には御言葉を説き明かし、何が主の御心かを教える教師が必要だからです。彼は何故「教師になってはいけません」と言うのでしょう。そのヒントはヘブル4:12です。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」教師は、この神の言葉を神に託された会衆に語らなければなりません。そして語る教師自身は、その「神のことば」によって、語る自分の思いやはかりごとが見分けられているのです。確かに「聖書は全て神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と議の訓練の為に有益です。神の人がすべての良い働きに相応しく、十分に整えられた者となる為です。」とⅡテモテ4:16,17に有る通りです。聖書は素晴らしい神からの賜物です。しかし、説教を聞いても、語る人によって聴く人が持つ重さ、深さ等の印象は大きく違うのを、誰もが一度は経験したのではないでしょうか。自分が示された御言葉について語る時、そこには語る人の思い、解釈、個性等が入っているのです。神の言葉が「語る人の言葉」という容器に入れられて聞く人に届くからです。教会は人の群れですから、神の言葉を取り次ぐ人の言葉によって、成長したり、停滞したり、壊れたするのです。ですから示されたみ言葉の意味を告げ、御心はこうと教える教師は「より厳しい裁きを受けます」とヤコブは教えるのです。しかし彼は、ですから「人は誰も教師になってはいけません」と言ったのではありません。み言葉の意味を、御心を知らせる教師は、教会が教会である為に必要だからです。教師が自分を制御して正しく語る人になれば良いのです。 そこで彼は、教師が犯し易い多くの過ちの中で、最初に言葉による過ちを上げ、「もし、言葉で過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です」と言います。教師が教師である為には言葉が欠かせません。ですから、言葉を制御して、自分が言葉によって罪を犯さないようにできる人がいたら、その人は厳しい裁きを受けずに済む教師と言えるからです。 とは言え、言葉を制御することは人にとって、簡単なように思えても、とても難しいことなのです。人が馬に轡を付けることによって、馬を思い通りに動かせるし、どんな大きな船でも、舵を取る人はその舵によって思い通りに船を目標に向かって進めることができます。同じように、人は小さな自分の舌を自由に使って、言いたいと思う事を言います。言葉を制御する為にはこの舌が問題になるのです。どんな種類の獣も鳥も、這うものも、海の生き物も人は制することができ、制しています。舌は轡(くつわ)や舵と違って、火であり不義の世界で、舌を制することができる人は、誰もいないのです。何故なら、「舌は休むことの無い悪であり、死の毒で満ちてい」るからと彼は言います。非常に厳しい表現ですが、相手の言葉に傷付けられ、死にたいと思った経験のある人はよく分かると思います。とても信仰的な事を言い、神を褒め称えながら、同じ口で平気で人の悪口、陰口を言ったり、面と向かって傷付くことを言う人は、正に、「同じ口から賛美と呪いのろいが出て来る」人なのです。 ヤコブは「私の兄弟たち、そのようなことがあってはなりません」と言いますが、時として、同じような事をしてしまう弱さを人は誰も持っています。どうしたら、舌を制御し、神に喜ばれる者として教会の中で、この世で生きられるのでしょうか。彼は、「いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか」と言います。彼は1:26で「自分は宗教心に篤(あつ)いと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教は空しいものです。」と言い、21節でも「全ての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」と言います。私達は神に知恵を与えられ、分別のある人とされているのです。これが私達キリスト者の大前提だと彼は教えているのですが、同時に、悪の力の働き掛けに常に曝されているのも、私達の現実なのです。 パウロもローマ7:23-25で同じような事を言っています。「私の体には異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法の内に虜にしていることが分かるのです。私は本当に惨めな人間です。誰がこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私達の主イエス・キリストを通して、神に感謝します。この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」と。私達も主に喜ばれる者でありたいと思っていても、自分の内に住む罪に縛られ、苦々しい妬みや利己的な考え、自分のものに執着する思いを優先させることはないでしょうか。 しかし彼は、だから主イエスを信じ救われていても、どうしようも無いとは言いません。主を信じ救われていることは決定的事実なのです。救われた人は主のものとなっているのであり、既に、神が全てを支配する神の国に生きているのです。ですから、この手紙も注意深く読めばよく分かります。彼は、「あなたがたのうちで、知恵があり、分別がある人はだれでしょう」と言いますが、これは「いないのですか」ではなく、「いるのです。あなたたがそれに気付いていないだけです」という問い掛けです。あなたがたには上からの知恵が与えられているのですから出来ます、変われますと教えているのです。 ヤコブは、主を信じ救われていても、人が世に人として生きている限り、弱く、罪を犯すと知っているのです。「主であり父である方を褒め称え、同じ舌で、神の似姿である人間を呪い、同じ口から讃美と呪いが出てくる」のを知っています。私達もこの世で生きていると同じような事をして反省するのでは無いでしょうか。だからこそ、「そのようなことが、あってはなりません」との御言葉をしっかりと受け止めましょう。私達はそのような者であっても、主を礼拝し、御前に出ることを欠かせないとして礼拝し、主のみ言葉を戴き、御旨を求めてここにいるのです。そして知恵があり、分別のある人とされているので、その知恵に相応しい柔和な行いを、立派な生き方によって示せるのです.「今が主のとき われ主のうつわ」なのです。ですから、悪いと気付いたら、止めましょう。私達の心の中には「義の実を結ばせる種が、平和をつくる人々によって平和のうち内に蒔かれ」ているのです。私達に福音を伝え、主を信じる喜びを教えてくれた人々の顔を思い出しましょう。主は言います。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました」と。自分を制し、主に相応しい者として生きる為には、闘いが必要です。でも、私達に福音を伝えた人々は、勇気を出して義の実を結ばせる種を、私達に喜びを込めて蒔いてくれたのです。私達の内には悪魔的なものがあるので、自制には努力と闘いが必要です。しかし私達は、主の十字架の死により救われ、復活の主と共に生きています。多くの救われた人々と共に生きています。十字架と復活の主を見上げ、その主に救われている自分を見、自分を制する者となって、この救いの喜びを世の人々に伝えましょう。 |