メッセージ(大谷孝志師)
私は何者でしょう
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年6月30日
出エジプト3:7-15「私は何者でしょう」

 誰でも一度は「私とは何者だろうと」思ったことがあるのではないでしょうか。職業や立場や性格でなく命そのものへの問です。挫折した時、人が本当に無力になった時、問うのではないでしょうか。あるいは、自分の無力を深く知った者にしか問えない、とも言えるかもしれません。

 私はクリスチャンになる前、生きる意味(も・が?)わからず悩んでいました。イエスキリストに罪赦され救われた時「本当の自分になれた」と思いました。やっといるべきところに戻ったと思いました。生きている喜びが与えられたというのでしょうか。私を創ってくださった方に会えた喜び。あなたを愛している、あなたは私の目には高価で尊いと言ってくださる神の元に戻って初めて命の価値がわかったのです。私は何者でしょう。その答えは、命を創られた神にしかない。そのことを今日の聖書箇所モーセから学んでみましょう。

 まずモーセという人物ですが、彼はエジプトの奴隷イスラエル人の子として生まれ、命の危険もあった中でエジプトの王女に拾われ王女の息子として王宮で最高の環境で成長します。しかし、イスラエル人としての心は失われておらず、40歳になった時、イスラエル人を打ち叩くエジプト人を殺してしまいます。一方、イスラエル人からも拒絶され、失望と恐れから遠いミディアンの地に逃げます。イスラエル人を救おうという自分の野望は失敗し、殺人者、逃亡者となってしまいます。すべてを失い、結婚後は義理の父の羊の世話をしながら暮らすモーセ。一体私は何者だろうか。羊を追いながら幾度も思ったことでしょう。挫折の苦しみ悲しみ後悔の念、それらを内に抱え40年羊を追い続け、80歳になったモーセ。神様は、最も良い時をご存知です。神様には遅くなっても遅れるということはありません。神様は、血気盛んで力も富も地位も立場もあり、誰もが羨むモーセは必要ありませんでした。召された時に、私は何者でしょう、と言うモーセが必要だったのです。神の前に靴を脱ぎ、神を畏れ、全く無力になったモーセが必要だったのです。その時こそ、神がお働きになることができる、神の栄光が顕されるのです。神はモーセを準備し待っていてくださったのです。

 私は神の御心と信じ約束を握って主人の働きに加わりました。期待は膨らみ、こうしようああしよう、と思いを巡らし行きました。しかし、待っていたのは想像を遥かに超える困難。生活も伝道も私の持っている何かなど役にたたない。携帯電話もネットもない時代、日本人としての悩みを打ち明けることもできない。その中で徹底的に神に向かいより頼む訓練を神様から受けました。そうして2年後、支援会が立ち上がり、直後に一人の素晴らしい僧侶が救われるという奇跡を神様が成してくださいました。誰が誇るのでもなくただ神の栄光が顕れるためでした。

 さてモーセに戻ります。「私は何者でしょう」への神の返事は「私は必ずあなたと共にいる」という約束でした。するとモーセは「今私は参ります」と申し上げます。恐れていたモーセに何が起こったのでしょう。モーセの視点が変わったのです。モーセは、最初神に呼ばれた時「仰ぎ見るのを恐れて顔を隠した」とあります。ひれ伏し顔を手で覆い「私は何者でしょう」と言ってたモーセが顔を上げ手の覆いを取り、目を主に向けた。瞬間、自分や自分の過去に囚われ自己卑下していた思いから解放され、主よあなたに従います、と言えたのです。私からあなたへ焦点が移った。それだけの変化です。しかしそれが大きな変化をもたらすのです。

 再び私の証です。ある日無力感失望感に圧迫されとぼとぼと道を歩いてました。目に入るのはゴミや牛の糞やら、益々落ち込みます。その時「私がいるではないか」という言葉が心に響いてきました。目を空に向けると、青い空が広がっており、そこに主の臨在をいっぱいに感じ、主よ、と祈りとも言えない声をあげました。イエス様の恵みに溢れました。相変わらず周りの状況は変わらなくてもです。重荷が流されて行きました。今でもはっきり記憶してます。私達が何に焦点を置いてるか。あの問題この問題、あの人この人。そうではなく「私は必ずあなたと共にいる」と言われる神を見つめる。私達は肉体の目で主を見ることはできません。見えない方を見るように、心の目で見ます。パウロは心の目が開かれるよう祈ってます。心の目(を?)開き主に向い、祈り、語り、聞く。その時主の思いが自分の思いになり、主に参ります、と言えるのです。私達は何を見ているでしょう。

 主に目を向け、主に一切を知られているという安心感の中で、モーセは主に対して正直に自分をさらけ出していきます。更に神様をもっと知りたいとの願いも生まれます。そして主ご自身も、名をあかし、親しくご自身を現してくださるのです。その名は「私はあるという者であると。」です。これは. 初めから永遠に存在する者、昔いまし今いましやがて来る者である。私こそが神であるということです。神を信じるのは神が神であられるからであります。神が何かをしてくださるから信じるのでなく神が神であられるから、「私はある」というお方だから信じるのです。その絶対的な神を前にした時に、私は何者でしょうか、という問はもはやなくなります。創造主なる方を前にし、もはや私が生きているのではない、私は生かされているのだと、私でなくあなたです、と方向転換が起こるのです。

 命の価値はそれを創られた方が一番ご存知です。御自分が創られた命だからこそ、命そのものを愛し慈しみ守り救おうとしてくださる。行動してくださる、ただ座しておられのではありません。お働きくださるのです。エジプトの奴隷となったイスラエルの苦しみをつぶさに見、叫びを聞き痛みを知り、降って来る神であられます。だからモーセを遣わしたのです。

 私達も皆、罪の奴隷でした。暗闇の圧政の元にいました。私達の苦しみを見、叫びを聞いた神様がイエスを遣わしてくださった。イエス様が神の身分でありながらその神と等しい立場に固執せず自分を無にして人間と同じ者になってくださった(ピリピ2:6)そればかりか、蔑まれのけ者にされ、悲しみ、病を知ってくださり、十字架にかかられた。(イザヤ53:3)その故に、私達は罪ゆるされ闇から光へと移され、永遠の命を頂いた。また今私達には聖霊が与えられ神が内住してくださるという驚くべき恵みを頂いています。私は有るというお方が私達の内におられるのです。モーセに使命を与えられたと同じく、神様は今生きている私達にも目的を持っておられます。大きい小さいでなくあなたにしかできない使命です。この世にあっては闘いがあります。頭をぶつけ悩み落ち込みます。しかしその苦しみも必ず誰かの苦しみのために用いてくださる。走り抜くためにはイエスから目を離さないでいなさい、とパウロは言います。どうぞ、命の源である神、高価で尊い者と言ってくださる神に目をとめてください。「私は何者でしょう」と問うた自分は、「生きているのはもはや私ではない。キリストが生きておられるのだ」「私を愛し、私のためにご自身を捧げられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)という新しい自分に主が創造してくださる。召しを受け取り、主よ参ります、と主と共に歩ませて頂きましょう。