| メッセージ(大谷孝志師) |
| 私たちが歩む新しい道にあるもの |
| 向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年7月3日 使徒16:1-15「私たちが歩む新しい道にあるもの」 牧師 大谷 孝志 |
私は後9ヶ月で引退牧師になり、新しい道を歩み出すことになります。教師生活のスタートは最初の妻の母教会、日本基督教団川崎新生教会伝道師でした。柏の実家からの通勤でしたが、嫁姑問題が生じ、妻の実家から十ヶ月通いました。総主事に国鉄の駅からバスで1時間以上の過疎地にある北上川を眼下に見るリンゴ畑と田んぼだけの宮城県の錦織教会を紹介され、25歳で牧師、保育園長になりました。妻は生後二ヶ月の娘を連れて付いて来てくれ、私達は新しい道を共に歩み始めました。でも不思議と不安はありませんでした。主が私達家族の為に備えた道と信じていたからです。 昔、道路脇の家に「我が前に道は無し、我が後に道はあり」という石柱がありました。私は人生を良く表している言葉だと思いました。人生という道は自分が切り開いていくものなのです。私はこれ迄十カ所の教会、伝道所で働き、その度に新しい道を歩んできました。そこには期待もありましたが、新しい場所での生活に私だけでなく、妻も子供達も不安はあったと思います。しかしそれぞれの新しい道を安心して歩んで来られました。それは「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる(22年度の主題)」との御言葉が真実だったからです。 パウロはアナトリア半島とギリシア半島に囲まれたエーゲ海周辺を三回伝道旅行をし、彼の働きにより、多くの教会が生まれました。今の旅に比べ、当時の旅は厳しいものだったと思います。しかし「全ての道はローマに通ず」と言われていたように、ローマ帝国は軍隊が速やかに移動できるように道路を整備していました。その事が彼の旅を容易にしたとは思われます。多くの軍隊や商人達が利用していた道でも、彼にとっては全て新しい道でしたが、彼はその道を歩み続けました。どの道においても、主が共にいたからです。しかし、6節に「アジアでみことばを語ることを禁じられたので」、「ビシディアに進もうとしたが、イェスの御霊がそれを許されなかった」とあるように、彼が今歩いている道をこのまま歩み続けようと思っても、それを禁じられてしまいました。人は、主が御心を行う為に備えた道を歩いているので、自分の思いのままの人生は歩めないのです。主にその道を禁じられた彼は別の道を行きます。するとトロアスで「マケドニアに渡って来て私たちを助けてください」と懇願するマケドニア人の幻を見ます。彼は、主が新しい道を示したと知り、指示通りマケドニアに渡り、ピリピの町で伝道しました。彼が歩んだ主が指示したその道も、主が必要なものを既に用意していた道でした。私達も主に歩むべき新しい道を示される時がありますが、主がこの町にリディアという家族揃って主を信じる者となる女性を用意していたように、歩み続けるのに必要なものを、主が用意していると信じましょう。不安や恐れに囚われることなく歩めます。 主が用意していたのはそれだけではありませんでした。ユダヤ人の会堂はなくても、彼が福音を語ることができるユダヤ人達の「祈り場」を用意していたのです。私達もこの向島キリスト教会に来て、この群れの兄弟姉妹と共に歩むという新しい道を歩んでいます。私もこの教会に赴任する前に、この教会に付いて様々な情報を与えられました。そのような事は今までなかったので、正直、大変な教会に行くのだなと思いました。しかし、不安も恐れもありませんでした。この新しい道も主が備えた道であり、私がこの教会に必要だから遣わしたと信じ、主は必用なものを用意して下さっているし、主が先立って共に歩んで下さる道と信じたからです。この八年間、様々な兄弟姉妹を新しく、或いは再び、この群れに与えて下さっています。逆にCSに子供達の姿が見られなくなってはいますが、それでも、毎週CSの礼拝を守り続けています。主は今、新牧師の招聘という新しい道をこの教会に与えています。どんな教師が来るのか、不安もあるかもしれませんが、同時に期待、希望を抱いて歩める新しい道なのです。何故なら、この道も主が与えた道であり、主が必要なものを既に用意して下さっている道だからです。先週私達は、この町で起きた出来事を学びました。不思議な出来事です。主は看守の家の人々を救い、全家族が神を信じたことを心から喜び感謝しました。このピリピでも、主はリディアの心を開いて、彼の語ることに心を留めるようにし、彼女とその家族がバプテスマを受けて救われました。主は新しい教会をピリピの町に誕生させて下さいました。 今に限りません。私達は様々な時に新しい道に歩み出すことになります。その時大切なのは、その道は主が開いて下さった道、主が先立って共に歩む道であり、主が必要な備えをして下さっている道と信じることなのです。その主は私達にも「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において、彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言います。 そして共に歩む私達に「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と命じています。私達は新しくなっているのです。「あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人はそれを造られた方のかたちに従って新しくされ続け、真の知識に至ります。」とコロサイ3:9,10にも記されています。確かに将来への不安や他人の言動等に流されそうになることがあるかもしれません。しかし主が共にいる道を歩んでいることを忘れなければ良いのです。主は「この道を歩み、救いを、私を必要とする人に出会え、私の為にこの道を行け、古いものに縛られるな。この道は、私があなたがたの為に開いた道。私が先立つ道。だから、ただ、私を見つめてこの道を安心して歩み続けなさい」と、私達に呼び掛けているからです。 |