| メッセージ(大谷孝志師) |
| 神を父と呼べる私達 |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2024年7月7日 マタイ6:5-10「神を父と呼べる私達」 |
キリスト教の大きな特徴の一つは主の祈りではないでしょうか。どの教会でも子供もクリスチャンも求道中の方も同じ主の祈りをしていると思います。全世界の教会も、宗派によって訳は違いますが、同じ主の祈りをしています。私達は讃美と言葉によるとの二つの主の祈りをしていますが内容は同じです。私は前にも言いましたが、子供の頃、朝食の前に主の祈りをしていました。母がその当時、キュックリヒという西ドイツの婦人宣教師の家庭集会に出席していて、父と私は母の方針で、食前に主の祈りをしたのです。そのように誰にでも神に喜ばれる神に語り掛ける祈りができるのは素晴らしいことです。 しかし、余りにも簡単で、いつも祈っているので、その意味を余り考えずに祈ってしまう危険性があるのです。私も子供の頃は、これを言わなくてはご飯が食べられないから、言っていただけの気がします。両親が謡曲に凝り出し、母がキリスト教から離れたので、朝食の後の主の祈りをしなくなったのです。これも母の勧めでしたが、高一の時に教会行くようになりました。礼拝で主の祈りをするので、それを真剣に暗記しようとしました。すると意外に簡単に覚えられたのです。それを母に言うと、「子供の頃、朝食前に主の祈りをしていたからよ」と教えてくれました。幼い頃に刻み込まれた事がしっかりと心に残っていたのです。幼児教育の大切さを改めて思わされました。 私達は今、司会者の祈りに続いて主の祈りを共に祈ります。礼拝の順序の一つとして、軽い気持ちで祈り流していないでしょうか。もしそうでなく、一つ一つの言葉を心を込めて神に祈っているその人は幸いな人と言えます。主は5節で、祈りは自分の信仰深さを人に示すものではないと教え、7節で、同じ言葉を繰り返したり、言葉数を多くして祈れば、神にいきいて貰えると思ってはいけないと教えました。何故なら、私達の天の父は、私達が求める前から、私達に必要なものを知っているからなのです。実はここに、私達にとって祈りが必要な理由、私達人間と父なる神との関係に付いて大切な事が教えられているのです。その事を「ですから、こう祈りなさい」と言って教えたこの「主の祈り」について学ぶことを通して、学んでいきたいと思います。 主の祈りは、同じ言葉をただ繰り返す祈りでも、言葉をだらだらと並べただけの祈りではありません。主の祈りは簡潔な祈りでありながら、必要且つ十分な祈りです。それだけに、一つ一つの言葉を大切に祈る必要があります。 主の祈りは「天にまします我らの父よ」という神への呼び掛けで始まります。この呼び掛けで始まる主の祈りの全ての言葉は、呪文のように神秘的、呪術的効果を秘めていると信じて唱える言葉なのではありません。私達が神に呼び掛け、語り掛ける言葉なのです。ですから、主の祈りをする自分が、先ずこの言葉で神に呼び掛け、語り掛けていると意識させる為の言葉と言えます。 最初の言葉は、私達が誰に語り掛けているのかをはっきりさせています。主は私達に、神への祈りの最初に、「天にまします我の父よ」と、神にこう呼び掛け、語り掛けなさいと教えたのです。ユダヤ教では「父なる神」と言うことはあっても、神に「父よ」と呼び掛けることはありませんでした。しかし、福音書を読むと、主は神に父よと呼び掛けています。ギリシア語聖書ではパーテルと訳されていますが、主はアラム語で「アバ」と呼び掛けたと考えられています。聖書はパウロの手紙のガラテヤ4:6とローマ8:15にのみ、「アバ」とそのまま残しています。このアバは、幼な子が自分の父に向かって使う言葉です。誰にでも肉親の父がいます。しかし、幼い頃と大きくなってからでは、父親との距離感、信頼感、イメージは違います。主は私達に「幼な子が父を呼ぶような思いで、神に呼び掛けなさい。そう呼び掛けて良いのですよ。あなたがたにとって神とはそう言う方なのですから」と教えているのです。 そして私達が神を「我らの父」と呼び掛けることで、自分達は同じ父を持つ神の家族と言い表していることになります。ですから教会の発行物には、~兄~姉とあります。私達は皆、神を父と呼ぶ神の家族の一人一人なのです。しかしどんな思いで神に「父よ」と呼び掛けているのでしょうか。お父さんのような方という思いではなく、私と私達を生み育ててくれている私と私達のお父さんと、身近にいる方との思いで呼び掛けているでしょうか。そう心から呼び掛けてみると、私、そして私達が皆で神をお父さんと呼べることの素晴らしさ、皆が私の家族だと思える素晴らしさが自分の心に広がって来ます。 主はそして、私達の父は天にいると教えます。主はここで施しと祈りと断食について教えていますが、施しにしても祈りにしても断食にしても、それをしていることが人に知られないようにしなさいと言います。私達が自分の信仰の深さ、正しさを人に認めて貰う為に神が喜ぶことをするのではなく、ただ神に心を向けて、神に喜ばれる事をしていれば良いと教えるのです。神は人には見えません。私達からすれば隠れた所にいるのです。そこが天なのです。昔、人類で初めて宇宙飛行をしたガガーリンの写真がロシアの博物館に飾られていて、その写真の下に「彼は宇宙に行った最初の人間である。彼はそこで周囲を見回したが、神は見えなかった。故に、我々は神は存在しないと確信する」という言葉が書かれているそうです。私達は宇宙に行けば神がいるところにいけるとは思いません。しかし私達は空を見上げた時だけでなく、周囲を見回した時も、自分達のいるところ、ここが天であり、目には見えないけれど私達の父なる神がいて私達の全てを見ていると信じています。 私達は自分の小ささ、惨めさに落ち込むことがあります。しかし神はそのような私達の全てを知った上で包み込んでいるのです。その神が私達の父なる神なのです。その神に天の父様と語り掛けているのです。私が教会に行く前の中学生の時、教会の修養会に行った同級生に「大谷君、教会では神様のことを天のお父様と呼ぶんだよ」と言われ、不思議に思った記憶があります。 所で、私達は「天にまします我らの父よ」と祈っていますが、普段、神に天にいる私の父という思いで、「お父様」と呼び掛けているでしょうか。主がまず最初にこう祈れと教えたのは、ここに私達に与えられている神と私達の関係が表されているからです。私達は、時に大きな悩みや苦しみに直面させられたり、思い掛けない出来事に右往左往させられる時もあります。しかし、それらが自分にとって途方もなく、自分にどうしようも無いものに見えても、その全てを天にいる私達の父である神が知っていると思うと、ホッと安心できるのです。こう神を呼べることに、「主の祈り」の素晴らしさがあります。 そうは言っても、普段の生活の中で神にお父さんと呼びけるのに不自然を感じることはないでしょうか。私も父が生きている間は「父さん」と気軽に呼び掛けていました。目の前にいるし、すぐに「何だ」と返事があるからです。しかし、神はこの個所にあるように「隠れたところにおられる」のです。私達の言動を見て「報いて下さる」とありますが、神は父のようには返事をしてくれません。ですからつい言葉だけで終わってしまったりします。神のことがよく分からない点では主の弟子達も同じだったようです。ヨハネ14:8で「主よ、私達に父を見せて下さい。そうすれば満足します」ピリポが言うと、主は「わたしを見た人は、父を見たのです」と教えました。神が私の内にいて、私の言動を通して、神が語り、神が行っていると主が教えたのです。「信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい」と言いました。聖書は全ての中で、神がどのような方であるかを証しているのです。その神が「天にまします我らの父」と主は教えました。聖書の全ての出来事の中に隠されている神、その見えない神に心の目を向けましょう。そうすると心から「お父さん」と神に呼び掛けられる私達になり、祝福に満ちた日々を生きられます。 |