| メッセージ(大谷孝志師) |
| 再チャレンジできる私達 |
| 向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年7月10日 ヨハネ21:15-24「再チャレンジできる私達」 牧師 大谷 孝志 |
主イェスの十二使徒の中で、ペテロがその筆頭として名が挙げられています。ですから彼のエピソードが沢山あります。一番親しみを感じるのは私だけではないと思います。ここで主は彼に三度「わたしを愛していますか」と尋ねています。彼がかつて、三度主との関係を否定したからです。 彼は主を愛し、主と一緒なら死でも良いと思っていました。しかし、主が捕らえられ、大祭司邸に連行され、自分がイェスの仲間だと言われた時、その極限状況の中で自分を見失ってしまったのです。主はその彼をそのままで赦し、彼の本心が主を心から愛していると見抜き受け入れたからです。 愛している人の信頼を裏切った時、相手が元のように自分の愛を受け入れてくれたら、言葉で言い表せない程嬉しいものです。私達が信じ従っている主は私達が願い求めるなら、私達がしてしまった事に関係なく、私の今の心を見て赦し、求めに応えてくれます。主の愛の世界に生きるなら、行き詰まっても、その時点、その場所から再出発、再挑戦ができるのです。 主はペテロが三度主を裏切るのをご存じの上で、彼の信仰がなくならないように祈りました。主は全てを見通し、人が善悪をするがままに任せています。それはアダムとエバにまで遡れます。主は、エバが蛇の誘惑に乗せられて、主が食べることを禁じていた園の中央にある木の実を食べるままにし、エバに言われてアダムがその実を食べるのを、忠告せずに、食べるに任せました。その結果、彼らはエデンの園を追放され、農耕の苦しみ、出産の苦しみを味わうことになります。何故主は悪を野放しにしていたのでしょおうか。そもそも、何故主は、悪魔を造り、世に存在させているのでしょうか。それは主は人を、人自身の意思で主に従い、主を礼拝する者として造られたからです。ですから人が自分の意思で悪を行うなら、そのままにさせたのです。そして主は彼らをエデンの園、神と共に、顔と顔を合わせて生きるでかいから追放したのです。しかし主はそのような人間を最後まで愛し、正しい道を歩むようにと、関わりつつ付けているのです。 人は良い事をもしますが、パウロも言うように、内なる悪に翻弄され、悪いと分かっていながら悪い事をしてしまいます。それだけでなく、互いに自由に自分の意思で生きているので、自分が善い事をしても、相手に誤解され、曲解されて、悩み苦しむこともあります。それが私達がこの世に生きる中で経験する現実です。しかしそれらは全て私達にとって、その場その時に必要な体験なのです。そう受け止めましょう。主は私達を愛し、その時その場に共にいるので。「主よ何故ですか」と呻き呟くのではなく、むしろ、自分にとっての教育の時、訓練の時、場であると捉えましょう。なぜなら、それで終わりではないからです。そこから自分の新しい人生、歩みが始まる再出発の時、もう一度挑戦する再挑戦の時でもあるからです。 ペテロは主に三度も「あなたはわたしを愛していますか」と言われました。この時、彼は自分の古傷をぐっと抉られるような思いになったのではないでしょうか。主の愛はただ暖かいのではありません。峻(しゆん)厳(げん)なのです。主の御前にいる自分を考えてみましょう。自分の全てを主は知っているのです。自分を省みると恐ろしさの余り身がすくむのではないでしょうか。しかし、その主は私の為に十字架に掛かって死んだイエスであり、このような私と共に私の主として共にいる方なのです。そして、主は彼の本当の姿を彼に見せ付け、再出発、再挑戦の場に立たせようとしているのです。私達も自分の弱さ、足り無さを知り、惨めさに苛まされる事があります。しかし、私達がそこに立つことが出来るから、いや、そこに立つことが必要だからそこに立たせ、私達に自分の本当の姿を見詰めさせるのです。自分の罪、弱さ、醜さを突きつけられるのは苦しいです。しかし人は、自分が罪深く、弱く、惨めな者と知るからこそ、心から相手に寄り添い、慰め、その人と共に生きられます。更に主は、彼がどんな死に方をするのかも教えます。この彼を主は最後迄ご自分の働き人として用い続けるのです。この彼も神の栄光が現わす者になれると教えます。私達も自分の姿を見つめさせて戴くと、苦難も喜べ、忍耐力が付き、練られた品性の持ち主になり、最後まで希望を持ち続けて、安心して今という時を生きることができます。 彼は三度も主との関係を否定しました。自分が主を愛し、主に愛されていると分かっているのに、自分自身を自分の判断で守ろうとしたからです。彼と同じようなことを私達もする時があります。死にたくない、生きたい、今を何とかして乗り切りたい、このままでは未来がどうなるか心配だとの思いが迫って来て、主のこと、自分の将来のことより、今の自分を守ることが第一になってしまったです。だからこそ、主は彼に「わたしを愛していますか」と三度語り掛けたのです。罪を犯した過去の自分ではなく、今も自分は々なのかと問い掛けたのです。私達も自分の過去に引きずられて、今の自分を見失うことがあります。主は「あなたは私を愛していますか」とその私に語り掛けていると気付くことが、私達の再出発、再チャレンジの第一歩となるのです。主はペテロがその第一歩を踏み出させる為に、「わたしの羊を飼いなさい」と言います。弱く惨めさを感じているペテロに、ご自分の羊を託したのです。主の羊に善い事、必要な事をしなさいと命じ、再出発、再挑戦の時と場を与えたのです。私達も互いに新しい思いで相手を見ましょう。時間的新しさではなく、互いに主の愛に包まれていることに気付けます。今、この世に生きる私達に必要なのは、私が主に愛されていること、私が主を愛していることです。主は私達にも「私の羊を飼いなさい」と命じています。周囲にいる人が主の羊であり、その人々に福音を伝え、共に生きる使命が託されていることを発見し、愛の主の御旨に応え、その人々に向かって、自分自身が再出発、最挑戦する者となりましょう。 |