| メッセージ(大谷孝志師) |
| 信行一致でみ言葉に生きる |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2024年7月28日 ヤコブ 4:1-10「信行一致でみ言葉に生きる」 |
月に一度ヤコブの手紙を学んでいます。「言行一致」という言葉がありますが、ヤコブは2:26で「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです」と言うように「信行(信仰・行い)一致」の大切さを教えていると言えます。彼は4章で、教会の交わりの中で戦いや争いがあることを取り上げ、それらが発生する原因と対処法を教えています。 その原因を「あなたがたのからだの中で戦う欲望から出てくる」ものだと言います。宛先の人々に戦いや争いが有ったかどうかは不明です。1:1に有るように、この手紙は「離散している十二部族(ユダヤの全部族)」に送られたもので、広い地域に寄留している信徒へのペテロ第一、もっと漠然とした「私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へのペテロ第二の手紙と共に「公同書簡」と呼ばれています。ですから特定の教会に、具体的戦いや争いがあったから書いたと言うより、この事が起きたら、その原因は自分達の内にある悪い動機から出てくるのだから注意しなさいと彼が教えていると考えられています。 2節の「人殺しをします」にはビックリします。これもその事例が有ったと言うより、相手の思いや権利を無視して自分の欲求を通し、相手を殺すのと同じようなことを平気でしているという意味と考えられます。彼は、人が主イエスを信じていても、自分が欲しいと思うものが手に入らないと、自分の欲求を無理に通そうとする面があると知っているのでこう表現したのです。 そして、そのように求めても自分のものにならないのは、自分の快楽の為に使おうという悪い動機から求めたからとその理由を明らかにします。私達は「求めなさい。そうすれば与えられます」との御言葉に勇気と希望を与えられています。そして、自分の快楽の為に使おうという悪い動機からでなく、主が人々の救い主であることが明らかになるようにと主の為に、様々な病に悩む人々の為に、或いは仕事や環境の変化で、突然生活状況が変わってしまった人の為に、主に必要な物事を願い続けることがよくあります。でもなかなか叶えられず、疲れて自分や人のせいにしたり、主から離れはしなくても、その問題から逃げ、求めることを止めたことがあるのではないでしょうか。 「節操のない者たち」は文語訳では「姦淫をおこなふ者よ」、口語訳は「不貞のやからよ」、新共同訳は「神に背いた者たち」と訳されていますが、預言者が神に背くイスラエルを「姦淫の妻」と呼んでいたことから生まれた夫婦関係の不貞を表す言葉なので、「神に背いた者たち」と理解して良い言葉です。 私達は、神を第一にして神と共に生きるか、世を第一にして神に敵対するのかの二者択一を常に迫られてます。ですから世の快楽に惹かれ、世の友となりたいと思うなら、自分を神の敵としていると気付けとヤコブは教えます。 教会に来て礼拝すること、来られなくてもライブ配信を見て共に礼拝することよりも、遊びに行ったり、好きな事したりしている人は、この世という自分が生きる世界の魅惑に負けて世の友となりたいと思っているので、自分が神の敵となるという神との関係での決定的な間違いを犯しているのです。 何故この世の魅惑に負け易いのかと言うと、彼は聖書の言葉を軽く受け止めているからだと言います。第一週に主の祈りの神への呼び掛けについて学び、その時、主の祈りを「礼拝の順序の一つとして、軽い気持ちで祈り流していないでしょうか」と問い掛けました。パウロもⅡテモテ3:16で、「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と議の訓練のために有益です」と言います。聖書は、私達の正しい信仰生活の為に、神が必要不可欠なものとして与えたものなのです。昔、神学部の先生に、「聖書は神の言葉だが、自分にとって神の言葉となることが必要です」と教えられました。聖書の言葉を自分に語り掛けられた神の言葉として聴きなさいと教えられたのです。 聖書を読む時だけでなく、説教を聴く時も同じことが言えます。皆さんは私の説教をどんな気持ちで聞いているでしょうか。先週の祈祷会でもお話ししましたが、説教は私の思いを書いた作文ではありません。確かに、聖書を読めば日本語の分かる人なら、何が書いてあるかは分かり、同じように、説教を聴けば何を話しているは分かります。しかし聖書を読み流し、説教を聞き流しているだけだと、人は変われません。それを自分に語り掛けられている神の言葉として聞くと、新しい事が起き、神に喜ばれる人に変えられます。 この手紙を受け取った諸教会の人々も、人の群れである限り、戦いや争いが起きてしまう可能性を持っていたのです。ヤコブはもしそうだとしたら、神はそのようなあなたがたを見て決して喜ばないと言います。神は主イエスを信じ救われた人々が、神に喜ばれ、受け入れられる人として生きられるようにと御霊を住まわせています。そして「神が私達の内に住まわせている御霊を、妬むほどに慕っている」と言います。私達の内に住む御霊を、妬むほどに慕っておられると言うのです。この言葉はどんな意味でしょうか。分かるようで分からない難しい言葉です。私達が聖書を読み、祈り、説教を聴いて御言葉に豊かに養われていますが、それは神が私達の内に御霊を住まわせているからなのです。その御霊を、神は妬むほどに慕っていると言うのは、それ程深く愛しているという意味です。そして彼は、神は更に豊かな恵みを私達に与えて下さると言います。それは神が、私達の内に住む御霊が生き生きと働ける私達になって欲しいと願っているからです。それ程に私達の内に住まわせた御霊を愛しているという意味なのです。そしてその事は、神はそれ程迄に私達を深く愛し、大切に守り導いているということでもあります。 それなのに、自分の快楽を満たす為に、世の人々との交わりに浸り、それを大切にすると世の友となり、自分を神の敵とすることになることになるので、気を付けよとヤコブは警告します。主もマタイ6:24で「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで、他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と冨とに仕えることはできません」と教えています。でも、どうしても人は自分の自由になり、自分の欲しいものを手に入れることができる冨の方を愛し、重んじてしまいます。神は見えないし、自分の願いを自分の思い通りに叶えてはくれません。確かにヤコブが言うように、「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」経験はします。しかし、その恵みは殆どの場合、人の手を介して与えられるものです。相手にありがとうと言い、神に感謝をしても、感謝の思いの大部分は、与えた神にではなく直接与えた人に向いてしまいます。ですから彼は先ずは、上からの知恵、神の知恵に満ちた聖書の言葉をしっかり受け止めよと言います。Ⅱテモテ3:15にも「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。」とあります。聖書は意味もなく語っているのではなく、エペソ6:17にも有るように、聖書は「御霊の剣、すなわち神のことば」です。聖書の言葉によって、私達は神に従い、悪魔に対抗できます。私達はうっかりすると、世の魅惑に負けて、悪魔に付けいる隙を与え、私達の間に戦いや争いを生じさせてしまうことがあります。だからこそ、聖書の言葉をしっかりと心に蓄えましょう。そうすれば、見えない、どこにいるか分からないと思っている神に近付けます。神はあなたがたに近づいて下さいます、とヤコブも教えているからです。 最後の9節に、虚勢を張らず、自分の感情に素直になりなさい。罪人の自分をそのままで受け入れる主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたを高く上げて下さいますとあります。聖書の言葉を自分に語り掛けている神の言葉として聞き、「平和で、優しく。協調性があり、憐れみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もない人として、この世に生きる者となりましょう。 |