| メッセージ(大谷孝志師) |
| 実を結ぶ生き方をしよう |
| 向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年7月31日 ヨハネ 15:1-11「実を結ぶ生き方をしよう」 牧師 大谷 孝志 |
主イェスは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶようにと、刈り込みをなさいます」と教えました。主が私の枝(蔓)という人々は、主に繋がっている人々です。父である神のその人々への対応は、実を結ばないか実を結ぶかで決まります。実を結ばなければ取り除かれます。滅ぼされるのです。これに対し、実を結ぶ蔓、御心を行い神に喜ばれる人々は、豊かな祝福を与えられるのです。 しかし主は「あなたがたは、わたしがあなたがたに話した言葉によって、すでにきよいのです」と言います。2節の「刈り込みをする」と3節の「きよい」は原文は同じ言葉です。つまり、弟子達は主が話した言葉を聞いたことによって、多く実を結べるよう既に整えられているのです。ですから、2節は旧約、3節は新約の時代と言えます。神はイスラエルの人々を自分の民に選び、神の民にふさわしい群れとなるよう守り導きました。神は定めた掟を守らない者を裁き、滅ぼしました。しかし、神の掟を守り、み栄えを現した人々は神に祝福されたのです。人々の言動の良し悪しによって神は人々を裁きました。しかし、それは神の御心ではありませんでした。神は人を神と共に生き、神を神として礼拝し、神に喜ばれる者、実を結ぶ者として人を創造したのです。しかし、人が自分の力では実をぶ者となれなかったのです。それで、神は時を定めて御子を主イェスとして世に遣わし、「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と神の福音を宣べ伝えさせたのです。そして主は、全ての人をきよい者とする為に、十字架に掛かって死んだのです。それによって、全ての人はこの福音の受け皿、入れ物を与えられています。きよい者とされているのです。しかし、入れ物を持っているだけでは、実を結ぶ者にはなれません。その為には主に留まる必要があります。「とどまる」は口語訳と新共同訳は共に「つながる」と訳します。原語は「エン」で英語の「in」に当たる言葉です。4節は「私の内にいなさい。私もあなたがたの内にいます」と訳せますが、「つながっている」「とどまっている」という意味でもあるのでこう訳されています。 次に主は「わたしにとどまりなさい」と命じます。私達はきよい者、実を結べる者となっているのですが、実を結ぶ為には、主に繫がっていなければならないと主は教えます。繫がっていようとする「私達の意思」を主は求めます。繫がる繫がらないは私達が決めることなのです。繫がるとは、信仰によって主に繫がること、主に祈り求めることと置き換えられます。繫がっているから、助け、癒し、励まし、戒めを主に戴けます。主は私達が何をしたか、どんな成果を上げたかを問題にしません。主に正しい姿勢を持っているか、主を信じているか、繫がっているかを主は見るからです。 復活後、他の弟子達が主に会い、自分は会えなかったピリポが私は自分が確認しなければ決して信じないと言った時、主は彼に「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言いました。主は私達が実を結ぶ者になる為に、ご自分と繫がっていること、信じない者ではなく、信じる者になり、信じる者でいることを求めています。私達はキリスト教会の存在を知り、教会に来て、主イエス・キリストについて教えられ、主と信じました。私達が主を信じることは、同時に主に従っていることなので、生き方、人生が変わっているのです。教会に来ている時、他の信徒と共にいる時、聖書を読み、祈っている時だけ、私達は主を信じているのではありません。全ての時が主を信じいている時なのです。この事を考え、この事実を真剣に受け止めると、悪い事はできなくなります。主に喜ばれる事が自分がすべき第一の事になっていきます。主に繫がっているとは、自分と主が一つになっていることだからです。恋人同士が手を繋ぐことを考えてみましょう。二人の距離が一気に縮まります。思いや感情が直に伝わってきます。 さて、実を結ぶとはどういうことでしょう。先ず浮かぶのは、思いや努力が現実になる、結果になることです。主は16節で「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それはあなたがたが行って実を結び、、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって求めるものをすべて、父が与えてくださるためです。」と言います。実を結ぶとは、私達が主に選ばれ、主の為に働く者となることを命じられ、主のわざをする為に世に出て行き、世の人々が救われて主の民となることなのです。主に繫がっているとは、キリスト者として世に生きていることであり、それが世の人々の救いという実を結ぶことになると主は教えます。繫がっているので主から豊かな恵み、知恵と力を頂くからです。主を信じていると、時に内から力が湧き上がり、勇気と希望を感じることがあります。それが主に繫がっているしるしです。 でも、主が彼らに繫がっていなさいと言ったのは何故でしょう。人は主を信じていても信じ切れず、委ね切れない時があるからです。世の嵐に悩んでいると、信仰が吹き飛んでしまう思いになることがあります。その時、自分は弱いと自覚し、弱い自分を認めましょう。だからこそ主にしがみ付くように、主に繫がっていましょう。だから主はそう彼らに命じたのです。 姿も見えず、声も聞こえない主です。どうすれば繫がっていられるのでしょう。主は「わたしの戒めを守り、わたしの愛にとどまりなさい」と教えます。主の戒めは「主が私達を愛したように、互いに愛し合うこと」です。主に繫がるとは、目の前にいる友と互いに愛し合うことなのです。教会の交わりが主の愛で満たされ、互いに愛し合う交わりとなる時、私達の互いの心が繫がり、一人一人が目に見えない主に繫がり、豊かな実を結び、その実が残る者になれるのです。互いに繫がり、主に繫がっていましょう。 |