| メッセージ(大谷孝志師) |
| 神様あっての私の人生 |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2024年8月4日 マタイ 6:9-15「神様あっての私の人生」 |
主イェスはご自分に従っている大勢の群衆を見て、山に登りました。そして腰を下ろすと弟子達がみ許に来ました。そこで教え始めたのが5章から7章に続く山上の説教です。主がその中で「こう祈りなさい」と祈りについて教えた言葉が「主の祈り」です。その最初の呼び掛けの言葉を先月学びました。 主は次に、祈りの内容について教えました。それは大きく二つに分かれます。前半は神に関すること、後半は私達に関することについての教えです。今日は、祈りの内容の前半、神の事柄についての祈りを共に学びましょう。 ここには三つの祈りがあり、この三つには共通点があります。一つは「み名をあがめさせたまえ」「み国にをきたらせたまえ」「み心の天になるごとく地にもなさせたまえ」とあるうように、全て「み」が付く言葉で始まっている点です。「み」は神のことです。もう一つは原文のギリシア語を見れば分かるのですが、全てが動詞、それも命令法不定過去受動態3人称単数で始まっていることです。命令法不定過去の動詞は日本語ではとても訳しにくいので、聖書にあるように意訳されています。そして、これらの不定過去の動詞は、祈ったことが必ず為されなければならないという強い思いを含んでいる言葉なのです。御名があがめられること、御国が来たらされること、御心がこの世でも行わさせれることが私達に必要ですと、自分の全存在を掛けて、神に願い求めなさいと、主は教えているのです。これが私達が祈っている主の祈りの前半の祈りです。私達は何故このように神に祈るのでしょう。神がこの世界の絶対的主権者だからです。御名が崇められること、御国が来ること、御心が天で行われているように、地上でも行われること、全て素晴らしい事です。そうなることによって、私達は神の恵みと平安の中で安心して喜んで生きられます。しかしそうなる為には、神がこの世界をそのようにして下さい、この世の人々に神がこの世の絶対的主権者で、それを行う力ある方であることを明らかにして下さいと、神に願い求めることが必要と主は教えます。 私達は、主の祈りをする時、主の祈りは祈りであること、神に、自分達に必要なものを願っていることを心に刻んでいましょう。確かに主は「祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。…彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。ですから、こう祈りなさい」と言って、私達が今用いている「主の祈り」を教えたのです。主の祈りはその意味で、必要且つ十分な祈りになっています。とは言え、それ以外の祈りは必要無いのかと言うと、そうではありません。聖書を読めば分かりますが、数多くの祈りが記されています。そして何よりも、主イェスは祈りの人でした。朝や夜に、長時間祈りの時を持っていたことが福音書の中から読み取れます、その間中、主が教えたこの祈りをしていたとは考えられませんし、弟子達にも、どんな事でも祈り求めなさいと教えているからです。 では何故、「こう祈りなさい」と教えたのでしょう。ルカ11章には、主がある所で祈っていた時、祈り終わった主に弟子達が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えて下さい」と願い、主が「祈るときには、こう言いなさい」と言って主の祈りを教えたとあります。しかし、彼らが祈ったことがなく、祈りの初心者の筈はありません。ユダヤ人なら祈ることは日常茶飯事だったからです。彼らは、どう祈れば主のように神に喜ばれる祈りができるのか、祈りの心、姿勢を主に教えを請うたと考えられます。ですから主は、この祈りを教えることにより、祈りの心、祈る時の神に対する正しい姿勢を教えたのです。どんなに丁寧に言葉を尽くして祈る祈りよりも、確実に神に届く祈りの実例はこうなのですよと、弟子達に教えたのです。 私達は時に、一人で神に祈ります。礼拝の奉仕者の時は、会衆を代表して祈ります。祈祷会に出席し、自分の課題を祈ることもあります。その全てで、この主の祈りに示されている祈り心、祈りの姿勢を持つことが大切なのです。 さて主は、祈りの前半で神についての三つの祈りを教えたのですが、その数が、後半の私達についての祈りと同じなのです。私達の祈りを考えてみましょう。私達が祈る時、殆どが、自分の事、自分と関係がある人々の事が大部分になっていると思います。主イエスは、自分の事と同じくらいに神の事も祈ることが大切だし、自分の事よりも、まず神のことについて祈るよう、教えたのです。何故でしょうか。私達も人から物事を頼まれた時、その人が私の為に色々と骨を折ってくれた人と、自分を助けることを当たり前のように要求して来る人のどちらを助けたくなるでしょうか。勿論、私達の神は、私達の奉仕や協力を求め、それに応じて必要なものを与える方ではありません。無償の愛を注いで下さる方です。求め方を問題にし、それによって与える与えないを決める方でもないと私は信じています。しかし主は、私達が神に祈る姿勢を正しくすること、神と正しい関係を維持することが、神に祈り求める上で大切と知るから、先ず、神の為にこう祈りなさいと教えたのです。 主は先ず、「御名を崇めさせ給え」と祈りなさいと教えます。「名は体を表す」と言います。ですから「神がこの世で人々によって崇められるようにさせて下さるよう乞い願います」との祈りです。主権は神にあるので、神にあなたがそうさせて下さいと祈れば良いのです。これは主の祈りの全てに共通する祈りの姿勢になります。次の祈りが「御国を来たらせ給え」です。「神よ、あなたがこの世が神の国であることを、私達が実感できるようにして下さるよう乞い願います」との祈りです。私達が見て、生きている世界は、悪の力が勢力を振るい、自分の支配下に引き込もうとしています。不安や恐れ、失望と妬みが渦巻く世界です。主が十字架の死によって悪に打ち勝つことができるようにしているのですが、人々の心が神に向いていないので、この世が神の国と実感できないでいるのです。ですから「御国を来たらせ給え」と祈り、神がこの世を神の国にして下さるよう祈り求めなさいと、主は教えたのです。 三つ目は「御心の天になるごとく地にもなさせ給え」です。「御心の天になるごとく」と祈りなさいと言われても、天の御国は、私達がこの世での人生を終わってからで無いと見ることはできません。しかし、神が直接御子イエスを通して働いた出来事、福音書に記されている主イェスの言葉と行った奇跡を通して想像することができます。例えば、ウクライナやガザ地区の人々の為に、或いは災害等で苦しむ人々の為に、何もできないと思う自分に悲しい思いをしている私達ですが、この祈りをすることはできるのです。自分にはどうしようも無いこの世の現実の中で、藻掻き苦しむしかない私達だからこそ、主はこう祈りなさいと教えたのです。私達主を信じるなら、どんな状況に置かれても、光を、希望を見出せます。私達は天の父なる神に祈ることができるからです。そして、神は祈り求めるなら、神は私達に必要なものを与え、必要な事をして下さるから、こう祈りなさいと、主は教えたのです。 主イェスは何故最初に神のことについて祈りなさいと教えたのでしょう。それは私達の人生は、神あっての人生だから、神次第の人生だからなのです。神は私達の全てをご存じです。そして、神の引き出しには素晴らしい恵みが一杯入っているのです。神は無償で私達に必要なものを与えます。しかしこの引き出しは鍵が掛かっています。そして神はその鍵を私達に託しているのです。主は言いました。「求めなさい。そうすれば与えられます」神に求めることを神は求めるのです。私達が神を神として信じ、従い、礼拝することを求めています。神を崇め、主が教えた祈りの心、神への正しい思いをしっかり持ち、神に喜ばれる者として、神と共にこの世に生きる者となりましょう。 |