メッセージ(大谷孝志師)
赦すことが必要な私達
向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年8月7日
マタイ 18:21-35「赦すことが必要な私達」 牧師 大谷 孝志

 人を赦すということは、簡単なようでとても難しいと思います。取り返しの付かないことをされた場合は、更に難しいことになります。日本でも「仏の顔も三度まで」と言いますが、ユダヤ教教師も三度までは赦しなさいと教えていました。何故三度かと考えると、最初は分からずにしてしまったのだろうと考え、二度目になるとものの弾みでしたのかもしれないと考えて赦せても、三度目になると、また同じ事をされるかもしれないと恐怖心が先に立ち、もうこれ以上は赦せないとの思いになるからでしょう。

 でも三度迄は何とか赦せるのは、人間関係は持ちつ持たれつなので、不必要な波風は立てたくないと考えるからです。それに赦すことは良いことだとの考えが、人の心には染み込んでいます。とは言え、同じ事を何度も繰り返されて、その度毎に赦すのは辛いです。ですから普通の人にはこれ以上は無理と思える限界を設け、そこ迄は赦しなさい、それ以上は赦さなくても良いとの限度が歴史や民族を越えて設けられているのだと思います。

 しかし主はルカ17:4で「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい」と教えました。ユダヤで七は完全数です。主は、単にユダヤ教教師が教えている回数の二倍以上赦せと教えたのではありません。罪を犯した相手を完全に赦せと教えたのです。ペテロがここで数にこだわったのは、三回でも難しいと思うのに、主は七回までも赦しなさいと言った。自分達が主の弟子として主に従って生きているのだから、そこ迄は我慢しなければいけないのだろう。だからそれ以上は我慢しなくて良いのかなと思ったからでしょう。

 その彼に主は「七回を七十倍するまでです。」と言いました。「数ではないんですよ」と言ったのです。この490回という数字、この後の譬え話の一万タラントという数字も、主のユーモアで、そんなに?と思わせる数字です。昔、「491」と言うスエーデン映画がありました。<赦されざる罪>がテーマで、ここまでしたら罪を犯したその人は赦されないということを描いた映画でした。この映画の制作者もペテロも聖書の言葉の意味よりも数にこだわったのです。人というのは所詮数にこだわってしまうのかもしれません。

 主イェスはそんなペテロに、借金一万タラントという数字の譬え話をしたのです。ユダヤ人が住むユダヤ、サマリア、イドマヤ、ガリラヤ全体を治めた当時の王の年収が九百タラントだったそうです。一万タラントはその十倍以上の額です。個人の負債としては途方もない額と言えます。主は額ではないよと教える為に、この額を示したのです。主はよく「へえ〜」そうなんだ」と、ビックリしながらも世の常識を超える事実を納得させる為に、このようなユーモアに富んだ話をしたようです。御心を正しく理解して生きることは、人にとってはある意味、とても難しいことだからです。

 王はこの家来に、自分も妻子も財産も全て売り払って返済するよう命じます。すると彼は「もう少し待って下さい。そうすればすべてお返しします」と言います。常識で考えれば返済不能なのですが、待って貰えれば自分にも返済できると思ったのです。現実には有り得ない話ですが、主はこの譬え話で私達に大切な事を教えています。主は先ず最初に、人は罪人であっても、自分の知恵や力で神に喜ばれる者でいられると思う傲慢さを持っていると暗示したのです。主が莫大な額の負債の話をしたのは、人の知恵と力では、神に喜ばれる者としてみ前に立つのは無理と教える為です。それと同時に、立ちたいと願うなら、ただ一つだが誰にでもできる方法があると教えます。王が彼に求めたように、自分と自分のもの全てを主に献げて主に従うことです。自分を捨て、自分の十字架を負って主に従い、自分を無にして自分を主に献げる者を神は喜んで受け入れてくれるからです。

 しかし、彼が待って下さいと言ったことには私達が注意しなければならないことが暗示されています。それは、自分も妻子も持っているもの全てを売らないままで、今の生活を続けさせて下さいと言って願ったのと同じだからです。人はどうしても自分の力で何とか現状を維持したいと考えてしまうのです。しかし真の解決は神の恩寵によると主は教えます。王はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除します。減額や分納ではなく、その負債を免除したのです。主は、王の彼への対応を通し、私達が受けた罪の赦しもこれと同じと教えています。私達は主イエスを信じて救われ、罪を悔い改めて、神の子とされ、永遠の命を受ける者とされています。私達は、罪に汚れている者であっても、主イエスを信じる信仰により神の恵みと憐れみを受け、私達自身の全てがそのままで聖くされているからです。

 次にこの家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間に出会います。百デナリは一万タラントの六十万分の一です。でも百日分の日当に当たり、個人の借金としては大変な額です。ですから彼は「返せ」と言い、相手が待って下さいと懇願しても、負債を返す迄と牢に放り込みます。主は、この家来の負債者への対応によっても大切な事を教えます。一万タラントは、人の罪と神の愛の深さを表しています。自分の莫大な負債を帳消しにされたのを忘れ、相手の負債を赦せなかったこの家来のように、自分の罪に気付かず、相手の罪が目に付く弱さを人が持つことに、赦すことの難しさがあります。しかし私達は、神に赦されたから神と正しい関係を持ち、心に平安を与えられているのです。赦しは人間関係においても、相手との関係回復の重要な手段になります。神に罪赦された自分を自覚し、その神の愛を心に刻み込み、神に罪赦された自分として相手と接しましょう。

 自分が傷付けられた相手を赦すことは難しいですが、赦せないままでは互いに辛く悲しくなります。その時、相手を赦すことが自分と相手に必要と知り、相手を赦すことで、神の国に生きる喜びを互いに味わいましょう。