メッセージ(大谷孝志師)
世を救う為に来た主
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年8月11日
ヨハネ 12:44-50「世を救う為に来た主」

 私は長年牧師として説教をしてきましたが、久しぶりに聖書の言葉に衝撃を受けました。それはこの12:47の「だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。」です。私はこれ迄、聖書に書かれている主の言葉は、主が私に守るよう命じた言葉として受け止めてきました。守らなくても裁かれないなら、聖書の主の言葉は何の為なのか、主を信じ従うことと主の言葉を守ることとはどう違うのかと考え込んでしまったのです。しかし聖書は続いて「わたしが来たのは世を裁くためではなく、世を救うためだからです」と主の言葉を記していることに気付きました。主が私達を救う為に世に来たのに、主イエスを信じて救われる為には何をしなければならない、何をしてはいけないかと、自分の言動が救われる条件と勘違いしていたのです。それは律法主義の考え方でした。主イェスが私達を救う為に世に来た救い主であるとの福音を信じて私達は救われたのです。

 主イェスは大きな声で「わたしを信じる者は、わたしではなく、私を遣わされた方を信じるのです。」と言いました。この「大きな声で」は私達に、この主の言葉は大事ですよと教えています。私達は聖書を読みますが、唯、聖書の言葉として読んでいるだけでは駄目なのです。目には見えないし、声も聞こえないけれど、聖書の言葉によって、主が自分に語り掛けていると知り、悟ることが必要なのです。私達はこの世に生きているけれど、見えない神の国にも生きているのです。何故なら、主はそうする為に世に来たからです。

 主は「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどどまることのないようにするためです」と言います。16:33に「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」とあります。私達は主を信じていても、この世に生きていると、直面している事柄の意味や将来何があるかが分からないので、不安や恐れに囚われます。それは霊的闇の中に留まっているからなのです。弟子達は約二年半、主と生活を共にし、主の教えを聞き、奇跡を目撃していました。しかし彼らも、自分達がどんな世界に生きているのかが分からずにいたのです。主イェスが世に生きて自分達と共にいる間は、彼らは安心してはいます。しかし、主は、父の許から出て世に来ましたが、再び世を去って、父の許に行くことになります。ですから、ここに記された主の言葉は、彼らだけでなく、主の姿を見ることも声を聞くこともできない今の私達への言葉でもあります。約二年半主と生活を共にした彼らと同じ世界に生きている者としての私達に語り掛けた御言として心に響きました。更に「わたしを見る者は私を遣われた方を見るのです」の主の言葉が、主を信じている私を見る人は、私と共にいる主を見るのだという驚くべきことが示されていると気付かされました。

 主の「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたともにいる」とのみ言葉が今、私達に実現しているのです。世の人に科学的に証明は出来ません。でも、私達は今から約二千年前の昔に十字架に掛かって死に、復活した主イェスが、今も生きて共にいると信じているのです。実感しているのです。世の人は、私達を自分達と何も変わらない普通の人間にしか見えないと思っています。でも、私達はそう考えてはいけないと、私達の内に住む聖霊が私達に教えています。私達を見る世の人も、実は復活した主イエスを見ていると知りなさいと教えているのです。勿論、聖霊の声は聞こえません。でも聖霊は私達に、その霊的事実を教えているのです。先ず、それが事実と信じましょう。私達はここにいる主を礼拝しています。ここに主がいなければ、この礼拝に意味はなく空しいだけです。目に見えなくても、主が共にいると信じるから、共にいる復活の主を、御霊を真理によって礼拝しているのです。

 私達は主が共にいると信じるから、今も将来も安心して生きていられます。でも自分の生活を顧みましょう。主を信じて生きていても、主の言葉を守り、主に喜ばれる生き方をしているでしょうか。確かに、目に見えず、声も聞こえないけれど、主が共にいると信じ、私達を悪いものから遠ざけ、良いものを与えていると信じています。しかし、不安や恐れに囚われることはないでしょうか。主が共にいるのを忘れ、自分の欲望に負けて、悪いと分かっていなから悪い事をしたことは無いでしょうか。そして悔い改めずに、仕方がなかったで済ませて、教会の礼拝や集会に出たことはないでしょうか。主が共にいると信じているということは、私の罪が赦される為に十字架に掛かって死に、復活して今も生きて働く主が、私と共ににいると信じていることです。

 私はキリスト者になってれ60年を過ぎました。自分の信仰生活を振り返ると、パウロは「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています」と言いますが、私は悪を、したいと思ってしてきたことが殆どだと思います。神学生でいた時も、牧師になってからも、平気で罪を犯してしまう弱さから自由になれない時があったのが、私という人間です。主は「だれか、私のことばを聞いてそれを守らない者がいても」と言いますが、牧師は、主の言葉を聞かずに仕事はできません。私も聞いても守らない者の一人だと、この説教を準備しながら、厳しく反省させられました。皆さんもそうだと思いますが、一人聖書を読み、礼拝や祈祷会で主の言葉を聞いていても。それを守らない自分を思い、反省させられた経験があったのではと思います。しかし、それでも私は牧師をし続けているし、皆さんも、主イエスを信じる者として、世に生き続けています。どうしてでしょう。主が「私はその人を裁きません」と言う方だからです。主が「来たのは世を裁くためでではなく、世を救うため」だからです。3:13に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とある通り、主は、全ての人を救い、神と共に生きる者とする為に、世に遣わされて来たのです。神は人をご自分と共に永遠に生きる者として創造しました。しかし、私達が自分自身を見れば直ぐに判るように、人は誰も、そのままでは滅ぼされる罪人になったまままのです。神の御心とは全く違う存在になってしまい、神との関係が断絶されているので、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを」見分けられなくなっているのです。ですから、主が十字架の上で「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と執り成しの祈りを私達の為にしたのです。感謝です。

 私達は主イェスを信じ救われていても、迷い、混乱し、失望し、時に絶望することもあります。神との関係が今も断絶したままで一歩通行なので、人とするように神と対話できず、闇の中で藻掻くことが多いのですが、主はその私達の為に光として世に来たのです。主を信じるなら、誰も闇の中にとどまることのなく生きられるのです。これが私達に与えられている福音です。

 心を静めて、目の前にいる主に心を向けましょう。御霊が私達を照らし、主が共にいると感じ取らせ、主イエスを信じる喜びで心を満たしてくれます。自分の知恵と力、判断力で生きるしかないと思うと、闇の中で藻掻くしかありません。それでは辛く、苦しく、寂しくなるだけです。主が世に来たのは、「神を知るための知恵と啓示の御霊」を与える為です。そして私達の心の目をはっきり見えるようにし、私達が受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私達信じる者に働く神の優れた力がどれほど偉大なものであるかを知らせる為(エペソ1:17-19)なのです。自分だけを見ると心は暗いまま、闇の中に留まったままです。主は私を裁く為ではなく、救う為に来たとの御言葉を心に留め、安心して世に生きていましょう。