| メッセージ(大谷孝志師) |
| 私達は何者なのでしょう |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2024年8月18日 ヤコブ 4:1-17 「私達は何者なのでしょう」 |
第三週なのでヤコブの手紙を学びます。このヤコブは主イェスの弟です。彼はマルコ3:21によると、主が自分の兄として世に生きていた時、世の人々が「イェスはおかしくなった」と言っていたのを知ると、身内の者達と一緒に連れ戻そうとしました。主イェスがどんな方か理解できなかったのです。しかし、どうしてそうなったのかは聖書に記されていないのですが、主イエスが復活し昇天した後、エルサレム教会が誕生すると、この教会の柱として重んじられていました(ガラテヤ2:9)。ですから、この手紙も御心を示す大切な手紙として聖書に入れられています。彼の手紙は、使徒達の証言が元になっている福音者やパウロや他の使徒達の手紙とは、雰囲気の違いを感じさせられます。ペテロとは違うのですが、やはり人間臭さを私は感じています。 11節でヤコブは「兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。」と言います。当たり前の事です。主を信じる信じないに関わらず、そうだなと思う言葉です。但し彼は、その善悪の基準を律法に置きます。ガラテヤ2:11に「ケファ(ペテロのアラム語名)は、ある人たちがヤコブの所から来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れていった」ので、「私は面と向かって抗議しました」とあります。「割礼派の人々」はユダヤ人キリスト者の中でも、異邦人も主の弟子となるなら、律法の定めに従い、割礼を受けてユダヤ人になる必要があると主張した人達です。主イエスも律法の大切さは認め、守るよう教えました。律法は、人が神に喜ばれる者として守るべき規則として神が与えたものだからです。ですからユダヤ人は、それを真剣に守ろうとしました。しかし、規則には解釈が伴います。これは良いがそれは悪い、ここまでは良いがこれ以上は駄目という基準が必要になります。律法は、神に受け入れられるか滅ぼされるかの基準です。ですから律法学者は、正確さを追求し、事細かな規則や解釈を作り、それを人々に守らせました。しかし、これも人の弱さからですが、枝葉末節にこだわり、律法の本文より、人が考えた解釈や規則を優先して、御心から離れ、人を裁く材料になってしまっていたのです。 ですから、神は預言者を遣わして、神に喜ばれるにはどうしたら良いかを教えさせました。しかし、人は自分の知恵と力で自分達の言動を決めたので、、結局は御心を行えなかったのです。ですから神は、先ず御子を主イェスとして世に遣わし、主が人々に御心を教えたのです。主は、山上の説教の中で、「~と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。~しなさい」と何度も言い、父なる神の御心は何かを教えました。しかしそれらの主の教えは、ユダヤ教の指導者から見ると、律法を否定し、神を冒涜しているとしか思えなかったのです。ですから彼らは、イエスをローマの手を借りて、十字架に付けて殺したのです。しかしそれも御心でした。御子の十字架の死の贖いによって、全ての人が主イェスを信じる信仰によって救われ、神の子となる資格を与えられ、永遠の命を持つ者となる道を開いたのです。主を信じる者は御霊が内に住む神の宮となり、御霊に助けられ、律法を与えた神の御心を行い、神と共に生きる者とされています。 彼は次に「自分の兄弟について悪口を言ったり、さばいたりする者は、律法について悪口を言い、律法をさばいているのです」と言います。判り憎い表現ですが、自分の兄弟について悪口を言ったり、裁いたりすることは、主が与えた新しい律法である「私があなたがたを愛したように、あなたがも互いに愛し合いなさい」との戒めを犯していることになるのです。裁き主は神お一人なのです。それなのに、他人を裁くとしたら、あなたは自分を神としていることになり、大きな間違いを犯していることになると彼は言います。 次にヤコブは、商売の為に一年間別の町に行き、お金を儲けようと計画する人達に「よく聞きなさい」と警告します。彼は商売することや商売して儲けることが悪いと言うのではありません。その動機と成果についての確信に問題があると教えるのです。商売する人は、自分に実行が可能と思う計画を立て、自分が努力すれば、目的を達成でき、望んでいる成果を得られると考えます。しかし、商売は、客や商売の競争相手があるものです。また、努力が実る時もあれば、実らない時もあります。彼が言うように、私達人間には、「明日のことは分かりません」という現実があるのです。それなのに、自分が成果が上がると思える計画を立て、自分が努力さえすれば、望む成果が得られると思うのは、人間の傲慢だと彼は教えるのです。私達人間は自分の存在意義を自分で確認したがります。自分が生きているのには意味があると思わないとやっていけない性質を持っているのです。自分が何の役にも立たない人間だと思うと辛く、夢も希望もない人生だと思うとやりきれなくなります。 ですから、自分の能力で将来の安全を確保しようとし、確保できると確信来たら実行します。そして成功すれば、喜び、安心し、失敗すれば自分や関わった他人を責めたりします。そして、自分の尊厳を保とうとするのです。しかし、それは人間の傲慢だと彼は指摘します。自分の様々な可能性や能力を考え、自分にはそれが出来ると考えるけれど、人の本質は「しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です」と言います。確かに私達は長くて百年、この世に生き、様々な計画を立て、実行し、その結果に、ある時は喜び、或る時は怒り、或る時は哀しみ、或る時は楽しみます。喜怒哀楽の中で生きていることを実感しながら、その生涯を終えます。しかし彼はそのような人生を儚く空しいものとは言いません。その結果に右往左往することが間違いだと教えます。確かに人生は霧のようなものではあります。しかしその短い人生をどう生きるかによって、その人生の後の御国での生活が決まるのです。 5:9でヤコブは「兄弟たち、さばかれることのないように、互いに文句を言い合うのは止めなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口の所に立っておられます」と言います。黙示録3:20に「私は戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事し、彼もわたしとともに食事をする」とあります。彼はここで、安心してその戸を開けられる人になりなさいと教えているのです。 私達は、先の事が判らないとしても、しなければならない事ができたら、それはしなければならないと考えます。これも当然な事であり、それ自体は悪い事ではありません。しかし人は、自分がした事に執着してしまうのです。そしてそれが良い事だと、彼が言うように「大言壮語して誇って」とまではいかなくても、どうしても、自分の存在を誇れるなら誇りたくなり、胸を張ってしまうのです。しかし彼それは、自分を他の人々から差別化することで、それは傲慢なので、そのような誇りは全て悪い事です、と彼は言い切ります。 ですから彼は、そうならない為に、私達が何かをしようと思った時は、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきですと言います。先ずは、推測通りになることに自分の人生を懸けるのではなく、先の事は何も判らないないので、自分にはどうしようもないと認めましょう。そして、全てを知り、全てを行う神の御前に謙遜になりましょう。彼は、難しい事を言っているのではありません。私達が信じ、心に思っている事を、素直に書いているだけなのです。「あなたがたは、全ての事は神の意志によって行われていると信じているでしょう。自分を土の器と認めて、自分を誇ることを止めなさい」と彼は教えています。パウロも言います。「誇る者は主を誇れ」自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です(Ⅱコリント10:17、18)」と。そのような自分になりましょう。 |