| メッセージ(大谷孝志師) |
| 真に知恵ある人に |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2024年8月25日 伝道者7:13-20「真に知恵ある人に」 |
第四週は旧約聖書を学んでいたのですが、2月が昇天者記念礼拝、その後、第四週が受難節と復活祭前、ペンテコステ後になり、講壇交換と川原先生の説教が第3週があったので、第四週にヤコブの手紙を学びました、その為、伝道者の書の学びは久し振りになります。今日は7:13-20を通して学びます。 聖書を読んで、先ず私達が知っておかなければならないのは、神のこの世に対する思いと人がこの世に起きている事柄の受け取り方には絶対的断絶が有るということです。ですから、この伝道者は「神の御業を見よ」と言います。この世に起きている事柄を自分のこれ迄の知識で、こうだろうと勝手に判断するのではなく、全ては神の御業であると素直に見なさいと言います。人には曲がっている、歪んでいると見えるものであっても、それは神によって行われ、神が良しとされたものなのです。ですから、人がそれを直したり、その良し悪しを判断することは誰にもできないと言います。人は自分の意思と力でこの世の全てのものを分類し、制御しようとしています。確かに神は創世記1:26で人に「生めよ、増えよ、地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ」と命じました。しかし、マタイ6:27で主が「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分の命を延ばすことができるでしょうか」と言うように、人は、自分の命さえ自分にはどうにもなりません。そして今まで元気だったのに、癌が見付かり、どんなに祈り求めても天に召される人もいれば、数十年長らえ、天寿を全うしたと思える人もいます。将来を嘱望されていながら、交通事故で若い命を失った人もいます。人の人生は、その人の功績や期待如何ではなく、ただ神の御旨によるので、私達はただ、「神は不思議な仕方で御業を為される」と受け取る以外にはないのです。こうではなく、こうありたいと願い、期待しても、彼が「神が曲げたものを、だれがまっすぐにできるだろうか」と言うように、全ては神が理由と目的をもって、御心によりそれをしているので、私達の願いや期待と違っていたとしても、それを現実として自分の人生として受け取る以外にはないのです。とは言え、これは自分を押し殺して、諦めて現実を受け入れなければならないのではありません。全ては神のものなのです。彼は「実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である(5:19)」からです。人が自分を神とせずに、神を神として崇め従うなら、その人は豊かな人生を生きることができるとこの伝道者は教えます。 そして彼は「順境の日には幸いを味わい、逆境の日には良く考えよ」と言います。私達は人としてこの世に生きている限り、順境の時も有れば逆境の時も有ります。人間とは不思議なもので、調子よく自分の思い通りに物事が進むと、いつか終わりが来る、その後はどうなるだろうと不安になります。今を単純には喜べないのです。そして物事が裏目裏目になると、こんな事がいつまで続くのかと、終わりの無いことへの不安が心に湧き、恐ろしくなります。人には先の事は全く分からないからです。しかし、先日の関東学院六浦中・高のボランティアキャンプの開会礼拝で話しましたが、私達は、全ての事を自分の意思で、自分の知恵と力によって行っていると思っているけれど、実は、神が御心により、私や人々にさせている事、神がなさっている事であって、そのなさる事は、全て時にかなって美しいのです。実はこれは、旧約の時代も今の新約の時代にも共通して言える事実なのです。違うのは旧約の時代の人々は、人である預言者によって御心を知らされたので、人は自分の判断で取捨選択してたのですが、今は主イエスを信じて救われて、神の宮、御霊が内に住む者とされたので、御霊に御心を知らされ、従えるからです。 ですから「これもあれも、神のなさること」は、旧約の時代も新約の時代の今も言えることなのです。私達も今、順境の日には幸いを素直に味わい、逆境の日には自分はどう考え、どう行動すべきかを素直に考えることができます。確かにそうであっても、3:11に有るように「人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることは出来ない」ことは今も同じなのです。しかし見極めることは出来なくても、主の愛と守りを信じて、主に期待し、自分が為すべきと思う事は出来ます。旧約の時代は「神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え」ました。今は、主イエスを信じる者は、罪人でありながらも、その信仰によって義とされ、つまり神に良しとされてています。ですから終わりまでは見極められなくても、主の守りと導きを信じて、安心して日々を過ごせます。そして、旧約の時代と同じように、後の事がどうなるかは神との関係は一方通行で、神からは私達に関わりますが、私達の方から関われません。しかしⅡコリント13:12でパウロが言うように、「その時には顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、、その時には、私が完全に知られているように、私も完全に知ることになります」。神との関係が一歩通行ではなく、相互通行になるからです。 この伝道者にとって、人生は空しいの一言です。彼は思いつく限りの事をし、世の人々の言動を見極めよとしたのですが、全ては空しく、風を追うようなものだったのです。しかし彼は空しいと言いますが、全ての事が無意味とい言ってはいません。自分がいくら努力しても真理、真実に到達できないので、彼は空しいと表現するしかなかったのです。神はこうするだろう。これにはこういう意味や目的があるから、神はこうさせ、このような状況にしているのだろうと或る程度は推測は出来ます。しかしそれが真理で真実であるとは言えないのです。彼は人としての限界を弁え、自分の推測は推測の域を出ないと熟知しているからです。彼は驚くほど真っ正直な人間なのです。 しかし、普通の人はそのような考えには付いていけません。これは真実だ、これは誰の目にも正しいと言えるものを求めるからです。それが人間だからです。しかし彼は、それを突き止めようとしても突き止めきれない事実があると言います。「正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある」からです。これも彼の言によれば「神のなさること」ですが、いくら考えても納得できる答えが出るようなものではありません。しかし、突き詰めて考えないと納得できないのも普通の人間なのです。ですから彼は、「正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない」と言います。人がどんなに突き詰めて物事を考え、答えを見つけようとしても、全てのことは神が行っている事なので、人には見極めることが出来なのです。自分がこれしかない、これ以外に解決はないと思い努力しても、無駄な努力でしかなく、自分という人間が崩壊してしまうと彼は警告しています。そして自分を悪ぶって見せたり、自分を結局何にも出来ない人間と諦めたりしたら、それは逃げ以外の何もので無くなってしまい、自殺という方法で自己解決を図ろうとする、そんな事をしてはいけないとこの伝道者は言います。 彼は、この両極端な方法を選び取らないで、自分を含め世の全ての事を神の御業と認め、ただ神を畏れ敬って生きよと教えます。それが真に知恵ある人になることだからです。人は目標を立てて、それを達成する為に労苦を惜しまず努力します。出来た出来なかったに関わらず、その自分への人の評価に囚われます。彼はそれらは空しい事だと言います。自分の労苦も、他人の評価も、全ては自分の中で作り上げたものだからです。だからと言って努力も労苦も必要無いのではありません。生きる限りそれは必要です。でもそこに、全ては神のもので、神がさせていることと知る知恵と知識が必要なのです。そこには無限の可能性が有るからです。真に知恵ある人になりましょう。 |