| メッセージ(大谷孝志師) |
| 自分たちのために祈る |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2024年9月1日 マタイ6:11-15「自分たちのために祈る」 |
第一週で今は主の祈りについて学んでいます。今月は、主イェスが自分達の為に祈ることを教えた後半の箇所を通して学びます。私達は毎日、様々な物を必要としています。食べる物、着る物、家庭や学校、職場で使う物など数限りなく有ります。私達はうっかりすると、それらが有って当たり前だと思っています。それらの物に、それらを与えたり、用意してくれた人に感謝の思いを持たないまま使ってるのではないでしょうか。人生は山あり谷ありです。思い掛けない環境の変化に出会うことがあります。それまで有って当たり前だった物が手に入らなくなったり、壊れて使えなくなることもあります。有る時には何も感じないのに、無くなってみると、その有り難さが良く判ることもあります。私達は、いつでも自分の生活の為に必要な物が与えられているから有ること、それに気付いていることがとても大切なのです。 主は祈りについて教えた時、先ず、初めの呼び掛けの言葉に続いて、前半の神の為に神に祈ることの大切さを教えました。神に願いを聞いて頂く為には、自分を含めたこの世と神との関係が正しくなるように、神が御心を行って下さいと祈ることが大切だからです。そして後半で、日常的な事柄、私達が日々の生活の中で必要とする事の為に祈る言葉を教えたのです。「衣食足りて礼節を知る」という言葉が有るように、日常生活を安心して過ごせることが、信仰生活を正しいものとする為に必要だからです。そして、後半の第一に「日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈りなさいと主は教えました。 昔、教会学校の生徒に、「主の祈りのにちようのかてって、何のことだと思う」と聞いたことがありました。そうしたら、「日曜のお話のことでしょう」と答えたのです。長年教会学校に通っている生徒なので、さすがと思いながらも、「違うよ、日曜日のことではなく、その日、その日のことなのだよ」と教えました。それともう一つ、「にちようのかてい」と糧を長く伸ばして祈る子がいたので、どうしてかなと思い、聞いてみたら日曜日の家庭のことだと思っていたのです。その生徒は、家族が揃う日曜日を楽しいものにして下さいという気持ちで祈っているらしかったのです。子供らしいなと微笑ましく思いましくた。言葉というものは、このように難しいものだと改めて教えられます。 主は、後半の自分達の為に祈る祈りの最初に、「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈りなさいと教えました。糧は要するに食べ物です。しかし主がここで教えているのは、ただの食べ物のことだけではありません。先程の教会学校の生徒の話ではありませんが、み言葉も糧の一つになります。み言葉は霊的食べ物と言えるからです。それだけでなく、私達は一人では生きていけません、勿論、主との繋がりが必要ですが、この世に生きる限り、様々な人々との社会的、精神的繋がりが必要だからです。周囲の全ての人が自分との繋がりを拒否し、沈黙した状態を考えてみて下さい。正に悲劇です。 主イェスが日毎の糧を今日も与えて下さいと祈りなさいと教えたのは、それらのものは全て、求めることによって与えられ、与えられることによって自分のものになると気付かせる為なのです。肉体を支えるもの、他の人との正しい関係を保てるようにするもの、勿論、神との正しい関係を保てるようにするものの全てが、有って当たり前と考えていると、人は無意識的に傲慢になってしまいます。自分を必要以上に卑下することはありませんが、自分に必要なものが全て神から与えられていると気付くことによって、私達は、主によって神の子とされている恵みを感謝し、喜んで主と共に生きる者となれます。しかし人は、見えるものに頼り、生きるのに必要なものは自分の知恵と力で獲得し、自分が自由に使える自分のものと思って安心します。しかし人は、神が万物の創造者、支配者と知って生きる被造物に過ぎないのです。 でも、人は何故神に祈るのでしょうか。人は祈ることによって神と交流が出来るからです。主イェスも祈りの人でした。父である神との交流を大切にしていました。それは、主が「神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を低くしてしもべの姿をとり、人間と同じようになられ」たからです。人として神に対してどう生きるべきか模範を示したのです。そして、私の父、あなたがたの父と言い、主イェスが神の御子であるように、主を信じ救われた私達も、神の愛する子と教えました。ですから主は「求めなさい。そうすれば与えられます」と命じ、教えたのです。 私達が神から必要なものを与えられるのは、蛇口を捻ると水が出て来るようなものではありません。そのような機械的なものではなく、神と私達が、親子という人格関係にあるからです。子が親に求め、親が子に与えることで、親子の関係が親密になり、深められていくように、人が必要だと思うものを神に求め、神に与えられることで、神が父として私を子として受け入れていると実感でき、それによって、神が私の神であると知り、神が全てを支配する世界に自分がいると判り、安心して日々を生きられます。ここに「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」との祈りの素晴らしさが有ります。 次に主は「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します」と祈りなさいと教えました。私達が使っている主の祈りでは、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」となっています。しかし、私達に罪を犯した人を私達が赦したから、神に私達の罪を赦して下さいと願うのではありません。先ず、私達の罪を赦して下さいと神に願いなさいと主は教えたのです。主はマタイ5:46で「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょう」と言います。赦すことは、相手を自分自身のように愛することで、主を信じる者としての当然の行為で、それによって神に報いを求めるものではありません。そうでは無く、神に罪人の自分を告白し、罪赦された者として相手を赦しますので、この私を赦して下さいとの思いを込めて祈るのがこの祈りなのです。 三つ目の祈りが「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」です。これは、私達が神の子に相応しいかどうか試さないで下さいと願うのではありません。試みは誘惑です。神は「ご自分でだれかを誘惑することもありません(ヤコブ1:13)」と有るように、神は私達を愛しているので、危険な方向に私達を引きずり込むような誘惑をしません。でも。私達はこの世に生きている限り、様々な衝動に駆られ、自分の欲望を満たそうとし、自分さえ良ければと考えて行動する誘惑に墜ちてしまうのです。悪の誘惑にさらされ、欲に引かれ、誘われるからです。人は自分ではどうにもならない弱さを持っています。自分ではそれに勝つことはできません。主はそれを知るので、神に私達を試みに遭わせないようにして下さいと願い求めなさいと教えたのです。しかしそれは、親が小さな子を危険から守るようにただ保護して下さいと願うのではありません。この願いには自己責任が伴います。この世に生きるとは、荒海の上を歩いて来た主イェスに、ペテロが「私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせて下さい」と言って歩き始めたけれど、彼は強風を見て沈み掛けました。彼は主から目を離したのです。この世は荒海と同じで、誘惑に陥る危険が一杯です。ですから主から目を離さないことです。主に目を留めていれば、試みに遭わないで済みます。でも目が離れてしまったら、ペテロのように「主よ、助けてください」と叫べば良いのです。主は助け、平安を与えてくれます。主はこのように私達がこの世において神の子として、神に喜ばれる者として生きる為に大切な祈りを教えたのです。この祈りを祈り流さず、一つ一つの言葉を自分の思いを込めて祈りましょう。神は私達の祈りを喜んで聴き、私達の祈りに応えて恵みと平安を与えます。 |