メッセージ(大谷孝志師)
聖書は神からの手紙
向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年9月4日
エペソ 1:15-20「聖書は神からの手紙」 牧師 大谷 孝志

  私達は日々、同じ様な時間を過ごしている気がしていないでしょうか。でも、今日は昨日とは違う一日です。人間に限らず、あらゆる生物は日々変化し、成長しています、毎日見ていると分からないけれど、親戚の子供と何年かぶりに会った時、その変化に成長に驚かされることがあります。私達も、同じように見えても、日々変化し、成長し、同じではありません。私達が今こにいるのは、主イエス・キリストが、私達にその事に気付かせる為なのです。私達は、これから自分はどうなるのだろうと考え、不安になる時があります。確かに今のままではと、不安や恐れを感じるからです。でも、私達は変わる為にここにいると信じましょう。変われるからです。

 今日の聖書にもその事が書かれています、この言葉も、主イエスが私達に与えている言葉です。ですから、この「私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父」の「私たち」を自分達のことと真剣に受け止めて読みましょう。二千年前に十字架に掛かって死に、三日目に復活し、見えないけれど私達と共にいて、全てを護り導いている方を、今も生きている主イェスとして私達は信じているのです。そしてこの方がキリスト、神が遣わした救い主です。救い主とは現状を変えて下さる方と言い換えられます。人は先の事が分からず、不安や恐れに囚われます。心が闇という現状の中に生きています。主は私達の心を光で照らし、自分が置かれている現状の意味、将来どうなるのかを教えてくれます。ですから、私達は今を将来を安心して生きていられます。この主イエスの神こそが、この世界の唯一の真の神なのです。神というと「山の神」家庭の主婦であったり、野球等のスポーツの「神」という言葉が、新聞の紙面を賑わすことがあります。人が思い掛けない事が起きた時、それを神様のせいにするからでしょう。

 とは言え、人は自分が人として自分らしく生きる為に支えとなる存在、頼れる存在を必要とするのは確かです。私も小さい頃は父に連れられて神社で神様に手を合わせました。しかし漠然とした存在でしかなかったです。しかし教会に来てみて、教会の人と出会い、彼らが主イエスという神を真剣に信じていると分かりました。最初は思い込みと思いましたが、その主イエスが私に語り掛けてきて、本当にいると分かり、今は信じています。その主イエス・キリストの神が私達の栄光の父であるとパウロは言います。

主イエスのことは聖書を読むと想像出来ます。でも神のことは想像すら出来ません。でもパウロは、神のことを深く知ることが出来ると言います。私達人間がいくら考え、努力しても知ることは出来ません。人の知恵や力では、神様のことを深く知ることは出来ないのです。ですから彼は、「御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」と祈っていると言ったのです。

 ですから私達は、神から知恵と啓示の霊を与えられるので、神がどんな方であるかを御霊に助けられて知ることが出来ます。私達に御霊が働き掛けて、心の目を開いて下さるので、神が見えなくても信じられるのです。。

 次にパウロは「神の招きによってどのような希望が与えられているか」を読者が悟るように祈っています。彼は、主イエスを信じ、主に忠実に生きていても、どんな希望を与えられているのかを悟れない人々がいると知っていたからです。実は、60年以上主を信じている私でも、自分にどんな希望が与えられているのかと、考え込んでしまう時があります。神は私の全てを知っていても、私には神の御心が何なのかを全く知ることが出来ないからです。主を信じ救われ、牧師をしていても、神との関係は一方通行のままです。しかし私の内に住む御霊の働きによって、御心を知らされ、それを行っていられます。私が神、主イエス、聖霊について話が出来るのもその為です。私達全ての人が、神に招かれているからこの教会にいると知りましょう。今は何となくでも、いつかはっきりと分かる時が来ます。神は私達を愛し、私達がそう知るよう願っています。この世に生きる中で、私達にはこんな将来が与えられていたと感謝する時が来ると信じましょう。

 彼は、「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、知ることができます」ように、と祈っていると言います。私達は自分が聖なる者だなんてとんでもないと思わないでしょうか。私達は何らかの罪を犯した経験が有るんではないでしょうか。私もその姿を人が見たらとんでもない事をしたとがっかりされることもしてきました。咎められたら警察に連行されるような事をした経験もありまっす。運良くというか、その私を神が護り、赦してくれたからであり、その事を心の重荷として置き続けるようにと神がしてくれた事だと私は心に刻み込んでいます。この「聖なる者」は、「清く、正しく、美しい人」ではなく、「神に愛され、受け入れられている人達」なのです。この世の常識や基準によらず、神がそう見ている人です。自分は罪人だから駄目だと考える必要はありません。人は誰でも、自分が神に聖なる者として受け入れらていると知れば良いのです。そんな良い事尽くめなことがと思うかもしれません。確かに世の常識では考えられません。でも神の国、神が全てを支配する世界とこの世は全く違います。主はルカ17:20,21で、神の国は、見える形で来るものではなく。「見よ、ここだ」とか「あそこだ」とかと言えず。神の国はあなたがたのただ中にあると言います。私達もその神の国に生きています。神は、私達がそう信じるなら、私達に対してもその御力をもって絶大な働きをして下さると彼は教えます。彼のこの手紙の読者への言葉は、私達にこういう希望が与えられている、こういう神の力を実感できると知らせる言葉でもあります。この言葉に限らず、聖書は、全ての人に与えられる良い知らせ、福音で満ちています。「聖書は神からの最高の手紙です」と世の人々に知らせましょう。