| メッセージ(大谷孝志師) |
| 互いに相手の奴隷に |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2024年9月15日 ヨハネ 13:1-15「互いに相手の奴隷に」 大谷 孝志師 |
先週は篠遠神学生による説教でしたので、今週はヨハネの福音書を通してみ言葉を学びます。主は受難週に弟子達の足を洗いました。足を洗うという言い方は、汚れた足を洗うように、悪事や、好ましくない職業の世界から抜け出る時に使います。主はこれ迄、人としてこの世に生まれ育ち、30歳半ばで公生涯と言われる福音宣教の生活に入り、各地の村や町を旅しながら、神に喜ばれる者となるにはどうしたら良いのか、神と共にいる生活、神の国に生きるとはどういうことかを様々な教えと奇跡により人々に教えてきました。 1節に「さて、過越の祭りの前のこと」と有ります。過越というのは、奴隷状態にあったご自分の民であるイスラエルの人々の呻きを聞いた主なる神が、その民をエジプトから脱出させようとした時の出来事です。神はその為にモーセを遣わし、王と交渉させました。しかしエジプト王がそれを許さなかったので、神は王が許さなければ災いを下すとモーセに告げさせました。災いが降るとその恐ろしさに一旦は許すと言うのですが、直ぐに前言を翻したのです。それが九回続き、最後に神はエジプト中の人から家畜に至るまで、全ての長子、最初に生まれた男子、雄の子を全て殺すとモーセに宣言させます。 そしてイスラエルの民には、小羊を屠り、その血を門柱と鴨居に塗っておくように命じました。その夜、エジプト中の全ての家の長子が死に、泣き叫ぶ声が起こりました。しかし、小羊の血を門と鴨居に塗ったイスラエルの人々の家を主が過越して滅ぼさなかったのです。そして、彼らはエジプトの奴隷状態から救い出されました。この事を記念して、毎年祝うように定められたのがこの過越の祭りのなのです。何故、この祭りの前に、主が弟子達の足を洗ったのでしょうか。それはこの過越の祭りこそが、主が全ての人を罪の支配から救い出す為の過越の祭りに屠られる小羊となって下さるからです。主イエスを信じるなら、その人は主の十字架の血によって罪を贖われ、罪人として滅ぼされずに救い出され、永遠の命を頂けるようになるからです。主は十字架の死の時が近づいたと知ったので、弟子達がご自分と別れてからも、ご自分と共にいた時のように、互いに愛し合い、神に喜ばれる者の群れとなり、主の弟子として良い働きができるようにと、彼らの足を洗ったのです。 足を洗うのは、当時の奴隷の仕事でした。ここで主が弟子達の足を洗い、奴隷として彼らの足を洗ったのは、マルコ9:34に、彼らが「だれが一番偉いかと論じ合っていた」とあるような群れだったからです。その彼らが、主の十字架の死によって罪を贖われ、主が復活し、昇天し、目に見えなくなっても、彼らが互いに愛し合い、助け、支え合う群れと変えられる為です。彼らが互いに足を洗い合い、互いに奴隷となって仕え合い、主に相応しい群れとなる為には、ご自分が手本をしてみせることが必要と知っていたからです。 彼らにとって、主が自分達の奴隷となって足を洗って下さることは、驚き以外の何ものでもなかったでしう。その主の思いが、「世にいるご自分の者たちを愛してきたイェスは、彼らを最後まで愛された」との言葉に表れています。 この主の深い愛が、今この世に生きる私達にも注がれているのです。だからこそ、私達は世の荒波に揉まれながらも、主に恵みと平安を与えられ、日々を生きていられるのです。そこに突然イェスを裏切ろうと思っているイスカリオテのユダの名前が出て来ます。この彼によって、主の御心を知らずに自分の思いに縛られ、悪の誘惑に陥り易い弟子達の弱さが表されています。このような弟子達に、自分の姿を見なさいと、聖書は私達に教えています。 さて主は、今こそ彼らに自分達がどう生き、どうあるべきかを教える時と知り、「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に纏い」、そして、たらいに水を入れて彼らの足を洗い、その足を拭き始めたのです。 主がペテロの所に来ると、ペテロが「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と言いました。それ迄も何人かが足を洗われた筈ですが、彼らは何も言わず、不思議に思いながらも洗われていたのでしょう。しかしペテロは、今起きている事の意味が分からない時は、その理由や意味を主に尋ねずにはいられなったのだと思います。私達の場合は、主イエスが目の前にいて、何かをしているのではありませんが、主は全てを御心のままに行っている、全てをご存じと信じてはいます。でも、何故こんな事が起きるのかと思った時、主に何故こんな事をするのですか、と尋ねたくなるのは当然だと思います。しかし主は彼に尋ねられ、「今は分からなくても、後で分かるようになります」と答えます。ですから、私達もこの主の御心を知り、何故主はこんな事をするのかと思うようなことに直面したとしても、この主の言葉を信じ、全てを主に委ねつつ、分かる時が来るのを待てば良いと教えられます。 しかしペテロは主に「後で分かるようになる」と言われても、「決して洗わないでください。」と主に言ってしまいます。当面している事柄の意味を自分で判断し、自分がどうしたら良いかを決めたからです。私達も聖書を読み、祈り、御旨を求めていても、自分のなすべき事がなかなか示されない時、自分が判断して決めた正しい事を行うのではないでしょうか。聖書は彼の言動を通して、私達の内に潜む弱さ、御旨を拒ませてしまう罪を明らかにしています。ペテロも相手の人の足を洗うのは奴隷の仕事だと知っています。ですから、先生であり主であるイェス様に足を洗わせたら申し訳ない、私の方が先生の足を洗って敬意を表すべきなのだと思ったのです。すると主は、「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」と答えます。するとペテロは「主よ、足だけでなく、手も足も洗ってください」と言います。思ったことを直ぐ口に出すペテロらしい言い方で、読んでいて微笑ましいです。すると主は「水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいのではありません。」と言います。この部分は写本によって違いがあり、最も短い写本はただ「洗った者は全身がきよい」です。主は「足を洗われた者は既に全身が清くなっているので、更にどこかを洗う必要はない」と言ったとする説を私は取りました。主は続いて「皆がきよいわけではありません」と付け加えます。主は2節にあるように「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イェスを裏切ろうという思いを入れていた」と知っていました。主は人としてこの世に生きていますが、この福音書の1章にあるように、神でありながら、人となってこの世に住んだ方で、超越的能力を持つ方なのです。 弟子達の足を洗い終わると、主は「洗足」の意味を彼らに教えます。「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」と。主は、ご自分が父のみ許に行く時、つまり、弟子達が今のようには主を見、主と語り合えなくなる時が来ると、弟子達相互の関係も今とは全く違うものになってしまうと知るので、彼らが「だれが一番偉いか論じ合う」者の群れのままでなく、互いに自分を相手の奴隷となって仕えるようにしなさいと教えたのです。主はご自分が弟子達の奴隷となって彼らの足を洗うことによって模範を示したことによって、私達が互いに教会の兄弟姉妹の奴隷となって相手に仕え合うことで、教会が地上の神の国になると教えたのです。 これは簡単な事ではありません。ですから、自分が主の御前にいると認め、主が共にいると意識しながら語り、行動しましょう。そして何より大切なのは、相手を主イェスと見ることです。これができると奴隷となって相手に仕えられます。それにより教会が主に喜ばれる麗しい教会に成長していきます。 |