| メッセージ(大谷孝志師) |
| 相手のことを心に掛けよう |
| 向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年9月18日 ピリピ 2:1-11「相手のことを心に掛けよう」 牧師 大谷 孝志 |
昔、年の暮れに幼児園で餅搗(つ)き大会をしました。餅つきは一人ではできません。取り手がいなくては、上手につき上がらないばかりか、うっかりすると駄目になってしまいます、返し方が上手だとまんべんなく餅がつけ、ふっくらとした美味しそうな餅に仕上がります。家庭でも家族がそれぞれの分を果たし、協力することによってうまくいきます。家事に限らず、私達は様々な面で協働作業をしています。人は一人では生きられないからです。この言葉は私の座右の銘になっています。高一の時、初めて出た当時の柏伝道所の教会学校クリスマス会で見た劇の題名が「人はひとりでは生きられない」でした。一人っ子の私は友達が欲しかったのですが、なかなかうまくいかず、登下校はいつも一人旅でした。そんな私は、皆で和気藹々と劇をする姿に大きな衝撃を受けたのです。大勢の小中高の生徒達が、助け合い、心を一つにして劇をしているのを見て感動したのでした。 パウロはここで、「同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください」と読者に語り掛けています。彼はお願いをしているのであって、命令しているのではありません。私達はうっかりすると「こうしてください」という言葉を命令と受け取られたり、していなかった事への非難と相手に受け取られてしまう時があります。でも、この手紙の読者は、彼の言葉を自分達の交わりをより良くしていく為の励ましの言葉として受け取ったのではないかと思います。1:4に「私は、あなたがたのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り」とあるように、自分達への彼の深い信頼と篤い思いがこの手紙に表わされているからです。これは私達の教会の交わりにとっても大切です。私達もこれが相手の為になると思い、相手にこうなって欲しい、こうして欲しいと思うことがあります。気を付けないと独り善がりになり、自分の気持ちが通じず、関係が壊れてしまう時すらあります。彼は言葉に出しましたが、普通はとても難しいので、先ずは相手を大切に思う心をしっかりと心に納めて接するよう心掛ければ良いと思います。私は初めて出た教会学校のクリスマス会でそれを感じ取ったのだと思っています。私達の教会も世の人々にその思いを抱かせられたら素晴らしいと思います。何より主が喜ばれると思います。 とは言え、教会はこの世の荒海に浮かぶ人間の集まりです。言葉や思いの行き違いで大きな問題が生じることがあります。勿論一人一人は自分なりに心を込めて主に仕え、相手に仕えようとしているのは確かです。しかしその思いはあっても、この世に生きている限り、様々な誘惑に陥って、思いとは違う言葉や態度が出てしまう時があるのではないでしょうか。ですから、パウロはその事を知るので、同じ思い、愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにしようと心掛けることが大切と彼らに語り掛けたのです。 人は一人では生きられません。ですから共に生きている人が必ずいます。しかし、どうしても人は自分一人で生きている錯覚に陥る時があります。そして、自分のことを心に掛けている人がいるのに、自分は孤独だと考えてしまいます。それは、他の人との関係を自分の方から切っているからなのです。そうなると、心に猜疑心や利己心、虚栄心が生じ、悪魔に隙を与えてしまいます。何故そんな錯覚が生じてしまうのでしょう。悲しいことに人は、周囲の人に認められたい、馬鹿にされたくないとの思いに縛られ、そこから抜け出せなくなってしまうからです。そして、属する集団の中で優劣を付けたり、自分を差別化しようとして自分を護ろうとするのです。 しかし教会という集団は違います。誰に認められなくても、キリスト者は主イェスが自分を認め、愛し、大切に思っていると知っているからです。ですから、安心して自分らしく生きられます。虚勢を張らずに済むので、相手を共に生きる人として素直に見つめ、受け入れられるのです。「何事も利己的な思いや虚栄からするのでなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」とパウロがいう生き方ができます。とは言え、頭では分かっていても、そんなにへりくだっていては自分のプライドが許さないと思ってしまう人がいるのは事実です。パウロはピリピ教会の中にもそのような人がいるのを知っていました。ですから彼は、この教会がより神に相応しい群れとなるように、人々がいつも喜んで主にあって生きられるように、改めて主イエスがどんな方であったかをここで教えるのです。 この2:6-11は「キリスト賛歌」として有名です。そしてこのような主を知ることが私達にとっても大切なのです。「キリストは、神の御姿であられるのに」とあります。神は見ることができません。しかし御子イエスは、福音書を読むと、その御姿を想像できます。主イェスはその姿で、見えない神を表しているのです。主も「わたしと父は一つです(ヨハネ10:30)」と言いました。私達が主に語り掛け、助け導きを求める時、その願いに神は応え。私達に必要な時に必要なものを与えてくれます。全知全能万能の神が、私達が人と心を通じ合わせるように私達に接しているのです。神が神でありながら、父や師や友人のように、心に掛けてくれているからです。 私達はどんな時でもどんな所でも一人ではありません。「わたしが共にいるよ」と言う神である主が私という人間の内にいるからです(ヨハネ17:26)。それが分かると、神である主イェスが自分を低くして僕となって私に仕えたように、へりくだって相手の為に、相手に必要な事をさせて頂く思いで相手にすることができます。私を心に掛けている主が私の内にいると信じると、主がその相手の事を心に掛ける思いを私に起こし、相手に行わせてくれるからです。そうすると、孤独感に苛まれている人に寄り添え、自分は一人ではないとその人に気付かせられます。主の思い、主と同じ愛の心を持ち、互いに相手を心に掛け合う心温まる教会を私達も目指しましょう。 |