メッセージ(大谷孝志師)
心を強く耐え忍ぶ
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年9月22日
ヤコブ 5:1-11「心を強く耐え忍ぶ」 大谷 孝志師

  万物の創造者、支配者である神は、御子イエスを主として世に遣わし、全ての人を神の子とする為に、主イエスをを信じる者が救われる道を、主の十字架と復活により開いたのです。しかし現実は、ヤコブが教えているように、人々はこの世に存在する悪に支配され、罪を犯しています。彼は信仰的に、それをこの世に生きているキリスト者に分かり易い表現で、厳しく指摘しています。ここに主の兄弟であるヤコブの大きな特徴を見ることができます。

 ここに書かれている金持ちは教会の人々ではなく、金に頼り、金に執着しているこの世の人々です。彼は読者に、金持ちを羨ましいと思うかも知れないが、主イエスにではなく、金に頼り、金があるから幸せだ、大丈夫だと安心し切っている彼らの現実と将来はこのようなものまのですと教えています。
 先々週のCSは、出エジプトの時、荒野の生活の中で食料を求めたイスラエルの人々に、神がウズラの大群を飛んで来させ、天からマナを降らせて養い、日毎の糧を与えて、ご自分が彼らの神であると改めて人々に示した話でした。神は全ての人に日毎の糧を与えて養ってなっている、これが私達の信仰です。
 しかし私達もそうですが、必要な物はお金を出せば買え、食べられるし、使える生活の中で、その事を忘れてしまうのが、人間の現実なのです。ですから、お金が尽きると心配になります。そのような金に頼り、神に頼らない人間の悲しい現実と将来を、ヤコブは金持ちを例に挙げて先ず教えたのです。

 金銀は錆びるとあります。純金、純銀は錆びません。でも、精錬が不十分で不純物が混じると錆びるからです。その錆が金持ちの不信仰を露わにしし、神の裁きを受けることになるとヤコブは言います。読者が彼らのように、終わりの日に滅びをもたらす罪を蓄えるという空しい事をせず、日々の生活の中でお金に頼るのでなく、神に頼る信仰をしっかりと保ちなさいと教えます。

 次に彼は、金持ちの労働者への賃金の未払いという不正を取り上げます。労働者は使用者に対して弱い立場にあります。金持ちが自分の都合で労働者の生活を脅かしても文句が言えないと思い、虐げたのです。しかし、自分は神を信じていなくても、神は全てを知るので、虐げられている労働者の叫びを聞き、知っていると彼は言います。不正を行う金持ちは最後には滅ぼされるのです。神は人には見えないし、その声も聞けません。それで、上の立場にいる人は下にいる人を虐げても大丈夫と安心してしまうし、下の人は何をしても無駄だと諦めてしまいます。人は自分が思った通りの事するのです。

 ヤコブは、確かにそれがこの世の現実です。しかし、この世の支配者は上に立つ者ではなく神なのです。神は悪を許さず、罪を犯す者を放置しないと彼は教えるのです。彼は読者に教えます。金持ちを羨ましく思っているかもしれません。彼らは確かにに贅沢に暮らし、快楽にふけっています。しかし、神は彼らに、自分達が犯した罪の報いを与えられるのです。家畜が十分な餌を与えられて丸々と太り、やがて屠られ、つまり殺されて、人に食べられるように、人生の最後に金持ちは神に滅ぼされてしまいます。ここで彼は最後に、あなたがた金持ち達は「正しい人を不義に定めて殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません」でしたと言います。これは、この手紙の時代の金持ち達が、無実のイエス・キリストを神を冒涜したと罪に定め、無抵抗の主を、ローマの手によって殺させた事なのではありません。しかし彼は、かつてのユダヤ社会の指導者達を、自分中心に、自分の欲望を満たす為に生き、無力な人達を虐げている人々に重ね合わせて、このように表現したと思われます。

 私達は、真の神、万物を創造し、支配し、愛をもって護り導き、調和の取れた社会になるよう働いている主を信じないで、様々な欲望にまみれて生きる人々の社会に生きています。しかし、その中に埋没してはいけないのです。

 「ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい」とヤコブは読者に語り掛けます。何故でしょう。この世の最終決定権を持つのは神お一人です。しかし神は、この世に生きる全ての人に自由を与えています。人は誰も自分が思う事ができる状態にあれば自由にそれをしています。しかし神は人に良心も与えています。こも良心で人は善悪を判断しますが、判断基準は自分にとってなのです。ですから人は、したい事をし、したくない事はしません。ですから、耐え忍ぶことは、したくないけれどしなくてはならないことになるのです。ヤコブが兄弟達と呼び掛けたように、読者は主イエスを信じ、救われ、福音に生きている人々です。主を信じているので、主が再臨する時まで、耐え忍ぶことが求められます。しかし、主を信じていても、世に人として肉体をもって生きている限り、信じ切れなくなる弱さを持ちます。ですから、励まし、あなたがには出来ますと語り掛けるみ言葉が必要です。

 ですからみ言葉によって立ち直させれた経験が何度もあったのではないでしょうか。私も「世にあっては苦難があります。しかし勇気をs出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました(ヨハネ16:33)」のみ言葉に「そうだ」と思いを新たにさせられたことが何度もあります。彼は、弱気になって、負けそうになる読者が、耐え忍べると知るからこそ、耐え忍びなさいと呼び掛けたのです。そして兄の主イェスのように、人々がよく目にする農耕の例えで教えます。「見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています」と。そしてもう一度「耐え忍びなさい」と言います。彼は自分の弱さを痛い程知っているので、読者の気持ちがよく分かるのです。だから「心を強くしなさい」と付け加えます。そして大丈夫だよとの思いを込めて「主が来られる時が近付いているからですよ」と優しく教えたのです。

 しかしヤコブは優しいだけではありません。主イェスの権威を徹底的に信じています。主イェスは生きて、自分と共にいる方と知っているからです。見えないけれど、主イェスの臨在を肌で感じているのです。彼は、人が互いに文句を言い合う時、互いに相手を裁いていることに気付いて欲しいと思っています。主もマタイ7:1で「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」と教えました。文句を言い合う時、人は自分の主張を相手に押し付けているのです。自分は正しい、相手は間違っていると思うから、それを認めようとしない相手に我慢できずに文句を言い、相手も同じだから文句を言い合うことになります。これは相手に寄り添おうとしない、共に生きようとしないことで、御心に反することになり、主に叱られることになるから止めなさい、と彼は教えます。彼にとって一番大切なのは、主の御心を行うことです。世の人々に福音を伝えることは正に主の御名によって語るという御心を行うことなのです。私達の信仰生活はこの一事に懸かっていると言えます。

 主イエスを信じる素晴らしさを知らない人に、信仰の喜びを伝えることはとても難しいことです。これは大きな苦難と忍耐を伴います。しかし良い模範が与えられています。聖書に残されている預言者の姿、生き方です。彼らは主が共にいて助けたからできたのです。彼らの模範に倣い、これが御心と信じ、主に助けられるなら、あなたがたにもできる、と彼は教えます。私達が耐え忍べるのです。全ては主が御心によって行うことなので、耐え忍ぶ中で、主の慈愛と憐れみを感じ取り、味わえるからです。私達の力に依るのではありません。彼はその事をヨブを例に挙げて教えます。彼は「私達は幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか」と言いました。彼の忍耐は想像を超えるものです。しかし忍耐には希望があり、ヨブの最後の姿にそれが示されていると彼は教えます。信仰生活は忍耐が伴います。しかし耐え忍べます。慈愛に富み、憐れみに満ちる主が共にいるからです。心を強く耐え忍び、主が再臨する終わりの日まで信仰生活を歩み続けましょう。