メッセージ(大谷孝志師)
不安が喜びに変わる
向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年9月25日
ヨハネ 20:19-29「不安が喜びに変わる」 牧師 大谷 孝志

  私達は毎年、イースターに私達の罪の為に十字架に掛かって死に、三日目に復活した主イエスの復活を祝い、礼拝しています。しかし、その前に主の十字架の苦しみを心に刻む受難節があります、四旬節と呼ばれる40日間です。今年も2月14日から3月30日でした。しかし実際は46日間です。何故かと言うと、その間の6聖日は主の復活を記念し祝う日として除かれるからです。私達は毎週日曜に会堂に集まり礼拝をしますが、それは、週の初めの日、日曜に主が復活したことを感謝し、礼拝を守っているのです。

 主イェスは今から約二千年前の方です。その方の復活が何故そんなに特別なのでしょう。復活はどうなることなのでしょう。復活はよみがえりとも言います。漢字は甦る・蘇ると書きます。共に元通りに生きるの意味ですが、甦るは陰府(よみ)から帰る、死んだ状態から生き返ることを意味し、蘇るは心肺停止から息を吹き返し、蘇生する時に使われることが多いです。

 聖書には死んだ状態から生き返った二人の例があります。一人は金曜の日没前に死が確認され、埋葬され、日曜の朝早くに復活した主イェスです。一人は死んで葬られ、四日目に墓から呼び出された主の友人ラザロです。この二人には決定的違いがあります。ラザロの場合は肉体のまま生き返ったのですが、主イェスの甦った姿も、弟子達の反応から生前の姿と思われます。しかしラザロと違うのは、主はマルタに「縋り付いてはいけない」と言い、戸に鍵が掛かった家に入ってきたように、霊の体に甦ったのです。人となってこの世に住む前のことばである時の姿に戻ったと考えられます。

 福音書には復活の主と出会った弟子達の不信仰が数多く記されています。彼らは生前の主からご自身が復活することを何度も聞かされていました。しかし、その話と現実が結び付かなかったのです。ヘレンケラーは水ということばを知っていました。水と言われる物も知っていました。聞いているものと触っている物とが結び付く迄は、彼女は暗闇の中にいたのです。目が見えず、耳も聞こえず、ものも言えない三重苦でしたが、心も暗闇のままだったのです。しかしその二つが結び付いた時、盲目のままでも、心に光が差し、全てが開けたのです。目は見えなくても光り輝く世界に自分はいると悟り、障がいを持つ人々の為に素晴らしい働きをしたのでした。

 私も教会に行き始めて、キリスト者の言動から主イェスが今も生きて働いているからこうなのだろうとは思いました。しかし、その知識は自分を変えなかったのです。しかし主が私に語り掛け、御声を聞いた時、私の人生は一変しました。彼らが懸命に私に語り掛けていたことと、自分が今経験したことが結び付いたのです。そして、自分が教会という主イエス・キリストが生きて働いている世界に、今いるのだと悟ったのです。「新生」という言葉があります。その時、私は新しい人として生き始められたのでした。

 私に限らず、人は教会に来て、或いは偶然手にした聖書を読み、また様々なメディアを通してイエス・キリストが十字架に掛かって死に、三日めに復活したことを知らされます。そして、クリスチャンはそう信じて生きていること知ります。しかしそれは全て余所事、他人事に過ぎないのです。ですから、それが自分にとって事実となるまでは、人は闇の中に生きるままなのです。教会という光の世界に生きているのですが、それが理解できないので、心は闇のままです。この先に何にがあるのか、どうなるのかが分からない不安が恐れを生み、時には絶望が襲って来ることもあります。

 しかし中には教会に来続け、クリスチャンになる人がいます。その切っ掛けは様々でしょうが、その一つに、私のようにクリスチャンの生き方や考え方に、これ迄の人とは違うものを感じた経験があると私は思います。或る人から、教会に来て、牧師夫妻や信徒との交わりを続ける中で、主イエス・キリストを信じる生き方に惹かれるものを感じ、自分もそうなりたいと思ったと聞きました。それは主からの働き掛けだったのですが、全ての人がそこから信仰への道を歩み始めのではありません。その人が、自分の現状、将来への様々な不安や恐れを感じ、心の闇の中で光を確かな希望を求めていたのです。その思いを知る主がご自分の存在を知らせたのです。主イェスがその人の光となって下さり、心が闇でなくなったのです。その人は主イエスを信じて救われ、新しい人としての歩みを始めました。主イエスを信じるとは、人生が不安から喜びに変えられることだとも言えます。

 自分が経験している事の意味、人から聞いたり、人の生き方を見て感じた事の意味、それが真実と知ると私達は変わり、新しい人としてその新しい世界に生きられます。しかし私達はTコリント13:11-12に「私は幼子であった時には幼子として話し、…思い、…考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせてみることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」とあるように、今は不完全のままなので、どうしても不安や恐れから抜け出し切れません。しかし私達には御霊という助け手がいます。ですから或る時ハッとし、主が共にいて光として輝いている世界に生きていると気付かされた経験が、私達にはあるのではないでしょうか。ユダヤ人を恐れて戸に鍵を掛けて家に閉じ籠もっていた弟子達の所に突然現れ、「平安があなたがたにあるように」と言ったように、私達は主が与える恵みと平安に満たされていると気付かせてくれます。

 私達が自分の不信仰に押し潰されそうになっても大丈夫です。主がトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言ったように、主が真の光としてその私達を照らし、「わたしが共にいる」と知らせ、不信仰の故に生じた不安を消し去り、私達の心を喜びで満たして下さるからです。