メッセージ(大谷孝志師)
聖書を読んで分かる為には
向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年10月2日
使徒8:26-40「聖書を読んで分かる為には」 牧師 大谷 孝志

 日本では、明治期に約百校のキリスト教主義学校が設立されました。私の母校の関東学院大学も、明治17年に横浜山手に創設された横浜バプテスト神学校を源流に持ち、学内の大講堂での礼拝に多くの学生が出席していました。横浜や大阪でもキリスト教主義の高校から、レポート提出の為に、数人ですが私達の教会の礼拝に来ていました。大阪の中学校の門の前で、ギデオン協会の方と聖書を配ったこともありました。多くの人々が聖書を手にし、教会に来て福音に触れています。しかし、日本のクリスチャン人口は長い間1%前後です。百人いれば99人はクリスチャンではありません。

 しかし、多くの方々の働きによって日本という畑に多くの福音の種が蒔かれているのは事実です。その人々が信仰を持てたら、日本のクリスチャン人口は格段に大きくなる筈です。何故十年一日のごとく低迷期が続いているのでしょう。理由の一つに、聖書は読んだだけでは判らないことにあります。西洋では長い間ラテン語訳が公式な聖書で、司祭等がそれを自国語に翻訳して説教しました。ラテン語を学習していない人は自分では聖書が読めず、司祭等から学ぶ以外にはなかったのです。加えて、聖書解釈の権威は教会が持ち、絶対的なものでした。しかし信仰は教会が与えるものではなく、主イエスから与えられるものと考える人々が、自国語に聖書を翻訳し、グーテンベルグの活字印刷の発明により、多くの国語訳の聖書が出版され、人々は自分で聖書を読み、自立した信仰者になっていきました。

 日本でも、江戸末期に日本伝道を目指した宣教師達が日本語訳聖書の必要を感じ、開国に備えて日本語訳に着手、禁教令が説かれる前の明治4年にゴーブルが摩太福音書(マタイの福音書)を刊行、その後、宣教師グループの「翻訳委員社中」により明治13年に新約聖書、20年に「聖書常置委員会」が旧約聖書を刊行し、日本伝道に大いに役立ちました。誰でも聖書を手にし、読めるようにと、多くの方々が労苦を惜しまず心血を注いだから今があります。今でも、教会でも学校等でも、多くの人々が聖書を読み、学んでいます。にもかかわらず教勢が伸び悩んでいるのはどうしてでしょうか。

 今日の個所は、エチオピア人の女王の高官で女王の全財産を管理していた宦官の話です。ユダヤ教徒の彼は礼拝の為エルサレムに上り、帰る途中でした。彼は馬車の中で預言者イザヤの書を読んでいました。御霊がピリポに彼の傍に行くように命じます。ピリポは十二弟子の一人ではなく、使徒達がみ言葉の奉仕に専念する為に、教会の様々な奉仕にあたる為に任命された七人の一人です。彼はステパノ殺害後に起きたエルサレム教会に対する大迫害により諸地方に散らされ、福音を宣べ伝えながら巡り歩いた人々の一人でした。彼はサマリアの町に行き、キリストの福音を宣べ伝え、人々をバプテスマに導きました。その後、御霊が彼を宦官に導いたのです。

 彼はイザヤ書53章を読んでいました。しかしそこに記されている人とは誰なのかが判らず、誰かに教えて欲しいと思っていたのです。御霊がその宦官を救いに導く為にピリポを遣わし、彼にその意味を教えさせたのです。彼はピリポにバプテスマを受けることを申し出、授けられ、救われました。

 昔、聖書をいくら読んでも、どうしても主イエスを信じられないという方から電話を戴き、暫く話しました。でも結論は出ませんでした。聖書は読むだけでは、主イェスがどんな方かを理解できず、信じられないのです。

 多くの方々の労苦により翻訳された聖書は、読めば何が書いてあるか判ります。キリスト者は御霊の助けに心を開いているので、御心を聞き取れ、み言葉に養われます。でも主を信じていない人が聖書を読んで何かを得ようとしても、堂々巡りをしてしまう事が多いのです。聖書の言葉を自分の経験から得、自分の内に蓄えられている知識で理解するしかないからです。

 私は教会に行き始めた頃、主イェスの十字架、復活、罪と救い、愛等の説教を聴き、聖書を読み、自分なりに理解はしても、主イエスを信じる気にはなれませんでした。バプテスマを受けないのと何度か聞かれましたが、「はい」言えませんでした。主イエスを信じたかったのは確かです。先輩方の生き方にそれを求めたくなるものがあったからです。礼拝や祈祷会に出て、クリスチャンの姿に触れ、自分もこんな生き方が出来れればと思いました。そして説教を聴き、聖書を読みましたが、本当の意味がどうしても分かりませんでした。しかし突然判ったのです。主イエスが私に働き掛けてきて、今も生きていると知らせたからです。何故だと思います。それは、私がそれを求めていたからで、私が求めているのを主が知っていたからです。私達が信じ従っている主イエス・キリストはそういう方なのです。 この宦官も同様でした。聖書を読んでいてもその意味が分からなかったのです。ピリポに教えを請いました。彼も知りたいと思い、求めたのです。彼はピリポの説き明しを聞き、書かれている方が主イエスと知り、主が私の罪の為に十字架に掛かって死に、復活して今も生きていて、自分に働き掛けてくれたと判ったのです。そして主イエスを信じて、救われたのです。

 聖書は、主イエスがどんな方かを全ての人に知らせる神からの手紙です。ですから、先ず、誰にでも自分の国の言葉で聖書が読めるように翻訳され、発行されています。でもそれは、人を入り口に立てるようにしただけです。心の扉を開ける必要があります。開けたくなるには、私達が福音に生きることで、読む人が聖書に生きる私達の生き方に心惹かれるものを感じることが必要なのです。その人が心の扉を開き、聖書の言葉の意味を知りたいと求め始めるなら、主は私達を用いて、聖書の意味が理解されるよう関わらせてくれます。主が私達に知恵と力を与えて助けるからです。聖書は、誰もが読み、真理を知るようにと書かれた神からの手紙です。少しでも多くの人に大切な聖書のメッセージが届くように私達も求めていましょう。