メッセージ(大谷孝志師)
主の恵みを数え、御言葉の確かさを知る
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年10月6日
Iコリント 12:4-11 「主の恵みを数え、御言葉の確かさを知る」 大谷孝志師

 ドラマを見ていて、この先主人公はどうなるのだろうと心配になる時があります。私達は自分の人生について不安を感じることはないでしょうか。私達夫婦も、向島教会に来る前に大きな不安を感じました。私達は内海部会を出ることを主に願ったのですが、主はこの部会に残る道を示されたのです。私の招聘を決めることになる向島教会総会の一週間程前に、他の部会の先生から、広島を出るなら、こちらに来ないかとの話がありました。でも今は向島教会の決議に任せていて、招聘されれば行くことになるのでとお断りをしました。主は私達に別の道も示すことで、私達の気持ちを確かめさせたのです。向島教会に行くことが御旨であることを改めて示されたのだと思います。

 さて、弟子達は主の十字架の時が近付くにつれ、先行きに不安を感じ始めていました。それはイエス様が「心を騒がせるのを止めなさい」と言ったことから分かります。彼らは、イエス様がいなくなったら、自分達はどうなるのか不安になり心配していたのです。ですからイエス様は、彼らの不安を取り除き、安心させようとして「心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言ったのです。イエス様にそう言われたのですが、彼らは神様を信じ、イエス様も信じていた筈です。当時の律法学者の弟子達は、師と生活を共にしていました。彼らもそれ迄の生活を捨てて主に従っています。もし、主が信じられないと思ったら、6:66に「弟子たちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった」とあるように、主の弟子であることを止めていた筈です。彼らは主に「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われて、「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています」とペテロが答えています。

 それなのに主がそう言ったのは、彼らが神様や主イエス様を信じているつもりでも、信じていないと主が見抜いたからなのです。私もイエス様を信じていないから、様々な人の言葉に惑わされて、大きな不安を感じたのだと改めて気付かされたのでした。自分達が信じている主イエス様が最善を成して下さると信じていれば良いのに、あれこれと考え、不安になっていたのです。人の思いを遙かに超えて最善をなされる主を信じる切ることが大切なのです。

 さて、20:19に「その日、即ち週の初めの日(主が復活した日)の夕方、弟子達はユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とあります。復活した主に会ったマグダラのマリアから「私は主を見ました」と告げられ、また、主に命じられた伝言を聞かされたのに、彼らは不安と恐れの中にいたのです。彼らは主イエス様を信じていました。でも、家の戸に鍵をかけていたように、自分の心の戸を閉じ、鍵をかけて閉じこもっていたのです。だから主はそう彼らに言ったのです。しかし今、私達が不安や恐れを感じるとしたら、それは、主を信じていない自分に気付き、信仰を新たにさせられる恵みの時なのです。私達はその時「心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしをも信じなさい」と自分に語り掛けている復活の主の言葉を聞き、聖霊様に助けられて、心の戸を開く者となる為に与えられた時なのです。

 主は、先の事に不安を感じている弟子達に「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」と言い、ですから心配する必要はありませんと教えたのです。彼らは主と離れることに不安を感じていました。この後、主は捕らえられ、十字架刑で殺され、死んでしまい、墓に葬られました。しかし彼らは、復活した主に会えました。そして、主を見て喜びました。主が、今日の御言葉で約束した通りになったからです。

 しかし40日後に、主は天に昇り、再び、彼らの目に見えなくなりました。でも弟子達は不安になりませんでした。「彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた」からです。先の事を心配せずに、心を合わせて熱心に祈っていました。弟子達は、主の昇天前の40日間、主から神の国について教えられました。そして、主の約束が確かであると彼らは知ったからです。復活の主に会い、御言葉の確かさを知った彼らは、主が昇天し、見えなくなっても、御言葉の確かさを知るので、もはや、主よ、あなたはどこにいるのですか、私達はどうなるのですかと呟かず、主が約束した時を、安心して待ち続けていられたのです。

 復活の主に会う前の弟子達は「心を騒がせるな」と言われても、心は不安で一杯でした。主に「私がどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」と言われても、イエス様の言う事が本当なのか分からなかったのです。確信が欲しかったのです。それでピリポは「主よ、私達に父を、見せてください」と言います。自分達の目の前にいるイエス様のことは分かります。でも神様は見えないからです。主が10:30で「私と父は一つである」と言っているのに、目の前にいるイエス様が父なる神様と一つだと信じられなかったのです。主は更に「私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい」と彼に言います。この彼を今の私達に置き換えてみましょう。

 私達には主の姿は見えません。ですから、主が私達を愛し、常に共にいて、支え導いている方、私達に将来と希望を与える計画を立て、それを実行している方と信じれば良いと分かっていても信じ切れない時があります。ピリポが見えない神様のことが分からなかったように、私達はイエス様が見えないので、イエス様が本当に共にいるのかどうか分からなくなり、正直言って、「主よ、お姿を見せ、御声を聞かせて下さい」とお願いしたくなる事があります。確かに聖書は、主は共にいると信じればよいと教えています。でも私達は、聖書の言葉を信じ切れない弱さを持っているのです。弟子達もそうだったのです。彼らはこの後、全世界に出て行って主の証人として福音を人々に伝えました。でも、私達と同じ人間なのです。それを知る主は「もし信じられないなら、業そのものによって信じなさい」と言います。これは私達にとっても大切な事です。私達は自分の信仰生活の中で主のみ言葉の確かさを度々経験しているのです。でもそれを忘れてしまうのです。聖歌にあるように「数えよ主の恵み」なのです。主は弟子達に更に「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います」と言います。私達は先の事が不安になったら、私達の信仰生活の中に起きている主の恵みの業を見れば良いのです。離れていた方々が教会に戻り、新しい方々が加えられ、この教会に自分の居場所を見出し、続けて来ている方々もいます。大学生もいて、若い力を感じさせられています。主は、この教会にそれぞれの方々の思い、願いを知って招き入れているのですが、それだけではありません。その人々がこの教会の働きと成長の為に必要だから招いているのです。主は様々な恵みの業を行っていて下さっているのです。主イエス・キリスト様は、私達の主です。そして私達一人一人と共にいて、全てを満たしている方だからです。

 主は14:14で「わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます」と約束します。主の恵み、御言葉の確かさを実感しましょう。「人生の海の嵐にもまれきしこの身も、不思議なる神の手により命びろいしぬ」の歌詞のように、私達はこれ迄の歩みの中で、主の恵みを数え、御言葉の確かさを知り、生きてきました。主は私達の全てを知り、守り導いているのです。主の御言葉の確かさに堅く立ち、主に願い、主に与えられ、主は見えなくても、先の事を心配せず、安心して世に生きる者となりましょう。