| メッセージ(大谷孝志師) |
| 見えていない自分に気づこう |
| 向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年10月9日 使徒9:1-22「見えていない自分に気づこう」 牧師 大谷 孝志 |
主イエスを信じて生きていると不思議な経験を何度もします。新しい力が湧き上がるのを感じることがあります。それにそれ迄考えたことも無かった事が、ふと自分に出来ると思ったりします。また進むべき道を示されたり、それが自分の使命と感じることもあります。この世の人々も神や仏を信じてはいます。でも「困った時の神頼み」だったり、皆が昔からしているからと、神社仏閣にお参りしている人が多いのでは、と私は思います。 確かに人は、苦しい時や辛い時には何かにすがりたくなったり、信じたくなります。でも逆に、自分は強いし、人生に迷いは無い、これ迄自分の力で物事を解決して生きたから、信仰は必要無いという人もいるでしょう。 キリスト教は、「父なる神、主イェス、聖霊」である真の唯一の神を信じる宗教です。私達はその信仰によって生きているし、そう信じられることを喜び、感謝しています。勿論、他の神や仏を、そしてそのようなものが乗り移った人を真剣に信じている人はたくさんいます。でもそのような人々も福音を伝える対象です。その人達も神が愛している人々だからです。 しかしその人々も含め、様々な私達が信じる真の神を信じていない人々に福音を、真理を伝える為には、私達が「自分達の労苦が主にあって無駄で無いこと」を知り、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励」んでいることが必要なのです。この世の現実、私達の教会の現実を見て、神は悲しんでいます。何故このような現実が長く続いているのでしょうか。それは私達が、見えていない自分に気付いていないからなのです。 今日の個所のサウロ、後のパウロですが、彼は唯一の真の神を信じています。しかし彼は、エルサレムの教会を迫害し、主イエスを信じる人々を全て捕らえて牢に入れていました。9:1には「サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようとして息巻き」と有ります。彼らを殺すことが善であり、正しいことと信じていたからです。ここに宗教が持つ危険な一面と限界を見ることができます。日本やローマのキリスト者に対する迫害は、既成の政治体制を脅かす危機感を抱いた人々によるものでした。しかし、彼は律法学者として将来を嘱望されていた宗教家なのです。十戒に「殺してはならない」と有るのを知っています。主イエスを信じることは邪教と思っていても、人を殺すことに抵抗はあった筈です。しかしそれを認めることは自分を否定することで有り、彼は引き返そうにも引き返せない道を突き進むしかなかったのです。確かにこのサウロは極端な例ではあります。しかし私達も、時としてこれは間違っている、止めるべきと分かっているけど止められない、した方が良い、してはいけないと判っていてもできない心理状態に陥ることがあります。「見えていない自分に気付いていない」のです。ここにキリスト教界の停滞が続いている原因の一つが有ります。 サウロがそのままの状態であったとしたら、悲惨な人生になったのでは無いでしょうか。しかし主は彼に語り掛けて、その状態から彼を救い出してくれたのです。その時、彼は「目を開けたものの、何も見えなかった」とあります。主はなぜそうしたのでしょう。それは、彼がそれ迄自分が目の前に見ていると思っていたけれど、実は何も見えていなかったことに気付かせる為だったのです。私達も一旦目をつぶり、自分が見ていたものを心で見直し、その真実を見抜かせてくださいと主に祈りつつ見ることが大切なのです。そこにキリスト教界の新しい出発点があると私は思います。 昔、友人が結婚した時、「こんな素晴らしい人が自分の直ぐ側にいるのに今まで気付かなかった」と言いました。高校生の頃から一緒に教会で活動した女性なのに、その人の本当の姿が見えていなかったのです。子供の躾で大声で怒鳴り続けるお母さんがいて、近所に丸聞こえでした。子供がひどく脅えていても、その子の表情が見えていないので怒鳴り続けたのです。私達も自分が見ていて分かっているつもりでも、実は見えていないのかもしれないと考えていることがとても大切なのだ、と心に刻んでいましょう。 サウロは本当に目が見えなくなりました。手を引かれて町に入ります。彼は心の問題を体で実感させられているのです。何故かと思ったでしょう。彼はこの意味を真剣に尋ね求めたのだと思います。彼が三日間飲食をしなかったのは、ショックだったからと言うより、目が見えない中で、何故こうなったのかと真剣に自分を見詰め直し、見出そうとしたからでしょう。 私達の教会が主の体なる教会として成長していく為に、私達自身が静かに自分を振り返り、主に救われた自分の本当の姿を見詰め直しましょう。自分達に何が必要か、自分達がしなければならない事は何か、分かっているようで分かっていないからです。実はそれに気付いてしまい、今の自分で無くなってしまうことを恐れていないでしょうか。その為に、自分にできる、しなければと思う事をしているだけということは無いでしょうか。 しかし、パウロに働き掛け、正しい道に導いたように、主は私達を変えようと今も働き掛けているのです。私達は主イエスを信じているのです。その自分に立ち帰る時、私達も為すべき事ができる自分になれるのです。信仰とは、主の力とは不思議なものです。本来の自分を見出させるからです。パウロは三日間目が見えませんでした。それは主が十字架に掛かって死に、復活するまでと同じ期間です。彼は古い自分が死に、新しい自分に生まれ変わったのです。私達も新しい力を与えられ、進むべき道を見出せます。その時、今迄の自分が壊れてしまうような思いになるかもしれません。でも大丈夫なのです。主イエスが信じる私達と共にいるからです。主は、見えていると思っているが、実は見えていない私達を愛し、救われた時の自分に立ち帰り、その自分として生きなさいと命じます。「信じない者ではなく、信じる者になりましょう。」そこに私達の将来があるからです。 |