メッセージ(大谷孝志師)
御国に生きている私達
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年10月13日
ヤコブ 5:12-20 「御国に生きている私達」 大谷孝志師

  ヤコブの手紙の学びの最後になります。この個所を読む時に大切なことの第一は、彼の手紙だということです。第二は、彼の言葉の全ては真実で、その背後には主がいるとの思いで読むことす。そうすることで、私達の信仰生活はより豊かなものになっていきます。何故なら、これは聖書、主から私達への手紙でもあるからです。勿論パウロが言うように、全て神の霊感によりヤコブが書きました。しかし聖書の他の人の手紙もそうですが、彼も、これらの事をこうすることが正しいと御霊に知らされただけではありません。自分の信仰生活の中で、これは真実だと体験し、確認した事なのです。ですからこうすれば良いと彼が教えている、と心で受け止めて読むことが大切です。

 ヤコブは先ず、「誓うことはやめなさい。天にかけても地にかけても、ほかの何にかけても誓ってはいけません」と教えます。彼が何故こう言ったのかというと、人が何かに掛けて誓うのは、相手が自分のことを信頼していないと思うので、神以外の何かに頼っているからです。また、神掛けて誓っていたとしても、正しい事では有りません。神を自分の都合の良いように利用しているだけだからです。ですからヤコブは、ただ神を信じ、神が共にいると信じれば良い、そして相手に対して誠実に約束を守れば良いのだから、誓うのは止めなさいと教えたるです。今日の個所全体に言えることですが、大切なのは、自分も相手も共に神の国、神が支配している世界に生きていると信じることなのです。相手が神を信じていない場合でも、自分が神に誠実に生きれば良いのです。神は信じる者の求めに応えて良いものを与えてくれます。主がマタイ7:11で言うように、私達の神は、天にいる私達の父だからです。

 彼の誓いの禁止は、多少の違いはあっても、マタイ6:34-37と同じです。彼が「裁きにあうことはありません」をそれに付け加えたのは、主の教えを軽んじずに、いつも主の御前にいる自分を意識していれば良いと教える為です。

 13-18節は祈りについての教えです。彼は「苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい」と言います。苦しむような事が起きた時、或いは何も起こらず平穏な時でも、その原因を人に求めたり、偶然そうなっただけと考えて、諦めたり、無感動でいたりせず、世に起きる事の全ては、御心によると信じることが大切さからです。

 しかし、病気という原因がある時は別です。人は誰も病気になれば医者に掛かります。彼は祈っているだけで良いので、医者に掛かってはいけないとは言っていません。病人が出たら、長老達を招き、御名によって、オリーブ油を塗って祈って貰うのは、ユダヤ教で行われていて、それを主の弟子達も取り入れていたので、ヤコブもそれを認めて、こう命じたと思われます。どんな方法を採るにしても、それが主の御名によって行われることが大事だからです。私達も祈りの最後に「主の御名によって祈ります」と言います。この言葉は形式的なものでも気休めのものでのありません。「私のこの祈りは必ず叶えられる」と信じて父なる神に祈っているのです。私達もこの教会の交わりの中にいる多くの病気の人々の為に祈っています。その祈りによって神が私達の願いを叶えてその人を癒して下さるのです。主がこの教会の一人一人の主であることをその人が癒されるというしるしによって表してくれるのです。教会がキリストの体であり、一人一人はその部分であるとはそう言うことなのです。「信仰による祈りは、病んでいる人を救います」というヤコブの言葉は彼の信仰生活の中で起きていた事実に基づいた言葉です。最初に言ったように、彼の言葉は信仰生活の中で、真実と体験し、確認した事だからです。彼は自分が信じる主を、読者に同じように信じて欲しいと願ってこの手紙を書いています。この信仰に立って生きる時、この教会は変わります。

 しかし現実には、信仰によって祈っても叶えられない経験を私達はしていると思っているかもしれません。しかし彼の「信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたら、その罪は赦されます」との言葉も、彼の事実に基づく言葉なのです。私達は誰をどのように礼拝し、日々この世界に生きてるのか考えてみて下さい。私達は、私達の罪の為に十字架に掛かって死に、三日目に甦って今も生きて働いている主イエス・キリストを、その御子を世にお与えになったほどに愛している私達の父なる神を、その事を私達の内にいてその事を知らせている聖霊を礼拝しているのです。主イエスが万物を支配している世界に生きているのです。これが私達が拠って立っている信仰なのです。

 私達が信仰によって祈り、主が立ち上がらせて下さり、罪を赦して下さっているから、主が共にいても恐れることなく、安心して礼拝し、生活しています。とは言え、この世に生きているので、人との関わりの中で罪を犯してしまいます。嘘をついたり、相手を欺したりすることもあります。悪の誘惑に負けてしまうからです。病んでいるのです。でも私達には希望があります。信仰による祈りによって癒され、救われるからです。その為にヤコブが私達に求めているのは、決して簡単な事ではありません。と言うより、非情に厳しい事なのです。互いに自分が犯してしまった罪を言い表しなさいと彼は命じます。恐れることなく、正直に自分がした事を相手に告白することです。誤魔化しは聞きません。主が全てを知り、自分の行為に裁きを下すからです。ですから彼は、互いの為に祈りなさいと命じます。主の「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」のみ言葉に通じるものがあります。自分の立場を守ろうとするのでなく、相手の側に立って、相手が罪の報いを受けないように、相手の為に祈りなさいと言うのです。これは厳しいです。でもこれが「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っている」私達、罪の世に生きる私達が、互いに平和に生きる為に通らなければならない道なのです。そうするなら、私達は御前に正しい人として、主に祈れます。その私達の祈りには大きな力が有ると彼は教えます。私達は主の憐れみによって、永遠の命を持つ者とされ、恵みと平安を戴いて世に生きているのです。主が私達を憐れみ、悪の力を打ち砕いて下さっているからです。ヤコブ自身がこの神の国、神が全てを支配する世界に生きているから、そして自分にできる事は、読者にもできると知っっているからこう命じます。

 それが真実であることを、今度は聖書に記されている読者と同じ人間であるエリヤの祈りの通りに神が行った出来事(Ⅰ列王記17、18章)を通して、聖書にこの実例があるから、主の憐れみを戴き、正しい人として彼のように熱心に祈りなさい、そうすれば主はその祈りに応えて下さる、と読者に教えます。

 最後に教会の交わりの中に、真理から迷い出た人がいた場合の対処法を教えます。教会はキリストの体であり、一人一人はその部分部分です。善い事、悪い事でも互いに無関係ではいられないのです。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです(マタイ18:20)」と主が言うように、教会は群れであって、一人では教会ではありません。ですからその私達の中に真理から迷い出た人がいたら、その人を教会から排除するのでなく、連れ戻しなさいと教えます。その人は迷いの道に入ってしまっただけなのです。広い意味でまだ神の国にいます。でもたましいは死の中にあります。教会が教会である為には、その人を救い出し、自分は教会の一員だと自覚を新たにし、新しい人として再出発する為の手助けをする必要があるのです。教会とはそういう事ができる特別な所なのです。全ての人が必要だから主が招き入れているのです。ですから私達は、互いに相手を自分の、そして主の家族として受け入れ、愛し合いましょう。主が支えて下さいます。