メッセージ(大谷孝志師)
失望を希望に変えた主
向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年10月23日
ルカ 24:13-35「失望を希望に変えた主」 牧師 大谷 孝志

  私達はこの祈祷会に出席することで、多くの恵みを戴いています。私は語る者として、皆さんは聞く者として恵みを戴きます。私は今メッセージを語っていますが、これは皆さんの為であると同時に,私自身の為でもあります。原稿を準備しながら、語るべき言葉を示され、恵みを戴きます。そして皆さんに語る中で,更に豊かな恵みを戴けるからです。皆さんも私から聞くだけでなく、私の話の後、互いに語り合う中で、豊かな恵みを戴いていると思います。確かに一人で聖書を読んでいても恵みを戴けます。でも、「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです(マタイ18:20)」と主が言うように、ここに共にいて、聞き、語り、祈り合うことによって、主が共にいることをより強く感じられ、より深く恵みを味わってるのではないでしょうか。一人静かに霊的な時を持つことも大事ですが、礼拝と祈祷会という共に主との交わりを持つ群れの一員となることが、信仰生活がより豊かになる一つの道と言えます。

 今日の個所にも二人の人が登場します。一人はクレオパですがもう一人は名前が出て来ません。二人ということに意味があるのです。二人は主イェスの十字架の死によって落ち込み、弟子集団を離れて、自分達の故郷に帰ろうとしていました。しかしこの後、復活の主イエスが二人と共に歩み、聖書全体に書いてある事を解き明かして,失望を希望に変えて下さいます。

 人は誰も失望するより、希望をもって生きられる方が良いと思います。そうは言っても、皆さんも失意のどん底に落ちたことが一度や二度は有ったのではと思います。主イエスを信じていても私達も弱いのですが。私達は自分の弱さを素直に認められるのです。主が私達を愛し、必要な助けを与えて下さるからです。多少ふらふらはしますけれど、元気に安心してそこから立ち上がり、前を向いて生きられます。何故でしょう。私達は信仰生活の中で、私達の罪、弱さを知っている主が、私達をそのままで受け入れ、助け導いているという経験を何度もしているのです。それを知るので、どんな状況でも、現状に失望せず、将来に希望を持って生きられるのです。

 二人の弟子も、主に助けられ,変えられました。彼らは失望し、全てを投げ出して故郷の村に帰る途中でした。彼らが「これらの出来事すべてについて、話し合っていた」内容が19-20節に記されています。それは主イエスの活動と十字架の死と復活迄の出来事でした。彼らにとって、「私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みを掛けていました」とあるように、主イェスは全ての点で偉大な先生であり、彼らは、夢と希望を主に掛けていたのです。しかし主は、ユダヤ社会の権力者である祭司長や議員達の手によって捕らえられ、ローマ人に引き渡され、十字架に付けられ、無抵抗のまま死んで葬られました。二人は正に失意のどん底にいたのです。

 その彼らに、主イェスの方から近づいて来て、彼らと共に歩き始めたのです。しかし彼らは,イエスだとは分かりませんでした。仲間の女達が主が埋葬された墓に行ったが、主の体が見当たらなかった事、御使い達が彼女達にイエスが生きていると告げたと聞いた事、更に仲間が墓が空になっているのを確認した事を聞いても、主イェスの復活を信じられず、失望したまま故郷の村に帰ろうとしていました。彼らが、主の復活は無いと決め付けていから、一緒に歩いているのが主だと判らなかったのでしょうか。或いは、復活の主の姿が生前とは違っていたからでしょうか。でも、女性や他の弟子達が主に会った時は直ぐに主と判っています。彼らの目が遮られていたから判らなかったのです。何故主は彼らの目を遮ったのでしょう。主が彼らを通して、信仰生活の意味、真実を全ての人々に教える為でした。

 私達は時折試練に遭います。試練として前向きに受け止められる時は良いのですが、主は何故助けないのか,どこにいるのか、私達は主にとって何者なのかと、愚痴や不平不満が出てしまう時があります。この二人のように、見ているのに、見えていないからです。私達の内にある罪が私達に共にいる主イエスを霊的に見えなくしているのです。彼らも共に歩いているのが主イェスと判れば、主に向かって愚痴ることは無かったと思います。

 私達が主に愚痴ってしまう時、彼らと同じ事をしていると気付きなさいと,聖書は私達に教えています。私達には見えなくても,主は共にいるのです。そして私達の愚痴を聞いています。主は本当に心の広い方なのです。それとは知らず、二人はその人に知らないのはあなただけですよと,馬鹿にしたように言い、この数日間に起きた出来事を話します。彼らは主イェスが神と民全体の前で、言葉にも行いにも力ある預言者と認めていただけでなく、死んだけれど、復活し、今も生きていることを他の弟子達から聞いています。しかしそれなのに、全てを諦めて,愚痴を言いながら故郷に帰ろうとしています。彼らは試練に直面させられているのです。私達も、原因も理由も今後もどうなるか判らない困難な状況に置かれた時、それは試練に直面している時なのです。彼らのように現状を見ていても、御旨を探ろうとしない、み言葉が何を教えようとしているのかを考えていないからです。試練の時こそが、主に祈り、み言葉に立ち帰り、主が求めている自分に成る為の恵みの時なのです。そうするなら、逃れる道を見出せます。それは逃げ出す為の道ではなく、主が備えている道を歩む為の道なのです。

 二人は主に聖書の言葉の意味を教えられ、主の体と血を意味する霊的食べ物を意味するパンを渡され、説教と主の晩餐という主との霊的交わりによって、目が開け、主が共にいたと判りました。主の姿は見えなくなりましたが、主は共にいると信じる者となりました。二人は現状を勝手に解釈して失望する者ではなく、主との霊的交わりによって主の真実を知り、希望に満ちた将来があると知り、どんな時も主と共に生きる者と成りました。