| メッセージ(大谷孝志師) |
| 私達の内にいる聖霊 |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2024年11月3日 ヨハネ14章15-24節 「私達の内にいる聖霊」 大谷孝志師 |
主イェスはご自分が父の許に返る時が近付いたのを知り、弟子達に自分の姿が見えなくなっても、私の名によって何かを私に求めるなら、私がそれをして上げると言ったと先月学びました。しかし、主はご自分が去った後、彼らが不安や恐れに囚われ、混乱状態になるのを知るので、「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です」と教えます。これは今の私達にとっても大切なみ言葉です。主は復活後、弟子達に現れ、神の国のことを語ったのですが、その後、天に上げられ、彼らの目に見えなくなりました。すると、彼らの傍に立っていた白い衣を着た二人、御使いですが、彼らに「あなたがたが見たのと同じ有様でまたおいでになります」と教えました。その弟子達と同じ状況に私達もいるからです。 主は弟子達に「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」と、彼らが主に求めて応えて貰う為には、彼らが守らなければならない条件があるのです。主は私達の全てをご存じです。出来ないことをしなさいと言うのではありません。出来る筈ですからしなさいと言うのです。これが私達の信仰生活において大切な事です。主は私達の主に真っ直ぐに向かう心を求めるのです。そうしたいと思い、そうすることが、主の戒めを守ることになるからです。しかし、パウロがローマ7:19で言うように「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行ってい」るのが私達なのです。 主はそれを知るから、父に願って助け主、真理の御霊、聖霊を送ってくれるように父に願い、父が与えてくれるのです。しかし「世はこの方を見ることも知ることもないので」とはどういう意味でしょうか。聖書には御使いが度々登場します。御使いは人の姿をしているので、アブラハムやヤコブにしても、マリアや脇腹を突っついて起こされたペテロにしても、見て話すことが出来ます。しかし聖霊については、使徒2:3で「炎のような舌」「聖霊に満たされ」等とと表現されているだけです。見える姿は記されていません。そしてこの「見る」と9節の「見た」では違う言葉が使われています。9節は普通は見たことを表しますが、ヨハネは17節で感覚的に見たでは無く、「信じる、信じない」を現す意味で使っていると考えられます。世の人々は弟子達の言動を見聞きして、御霊の働きを感じ取っても、信じようとせず、深く知ろうともしないので、聖霊を受け入れることができないと、主は教えたのです。 「あなたがたは、この方を知っています」も大切な言葉です。弟子達は、主と生活を共にする中で、主が行う御業、教えを通して、真理の御霊が主と共にいて働いていると信じ、受け入れていたのです。ですから主は「あなたがたは、この方を知っています」と言ったのでした。私達も自分の信仰生活の中で、聖霊の働きを感じ取っている筈です。「聖霊」は何かぼんやりとした感覚で思い浮かべる方では無く、私の信仰生活の中で、そして教会の交わりや活動の中でご自身の存在を私達に示している方です。ですから、その方にしっかりと心を向けて、主の恵みを感じつつ生きる者と成ることが必要です。 聖霊は常に私達と共にいます。これは私達がどう思い、どう信じようと、或いは否定しようとも事実です。神が御心によってそうしているからです。しかし、私達の内に聖霊がいる気付くことが必要なのです。それによって、私達の信仰生活が大きく変わってくるからです。「この方」と主が言うように、聖霊は人格を持つ神です。三位一体の神ですから、父なる神、子なる神と別の聖なる神がいるのではありません。私達に神が御力をもって関わる時、知恵や知識を与え、状況を変えたり、新しい道を示したりする時、私達はそこに神の人格的存在を感じ取ります。その方を私達は「聖霊」と呼ぶのです。 そして、私達は聖霊を自分の内に感じる時、私達は内側から力が湧き上がるのを感じます。この罪深い私の内に聖霊がいるのです。驚くべき素晴らしいことです。私達が新しい人に変えられているのです。この事を、主は聖霊が「あなたがたのうちにおられるようになるのです」と教えているのです。 とは言え、この信仰的、霊的事実は、ひょっとした事で簡単にひっくり返ってしまうことがあります。世に生きている限り私達は弱い存在なのです。父なる神が、主イエス・キリストが、聖霊が私を見捨てて離れ去っているのだ、私は孤児になっているのだと落ち込んでしまうことがあります。違う、主は共にいる、だから祈ろうと思って、聖書を開き、主に祈ってみても、何だか空しさだけしか感じ取れないことがあるのです。主は弟子達が今の私達のようにそうなると知っています。ですから「あなたがたのところに戻って来ます」と言います。これは世の終わり、終末の日のことを指しているのではありません。今世に生きている私達が信仰生活の中で経験できることです。 「あと少しで、世はわたしを見なくなります 」確かにそうです。主は十字架に掛けられて死んで墓に葬られるからです。霊の体に復活したので、復活の主を見たのは、弟子達とマグダラのマリアともう一人のマリアだけです。世の人々は主を見ることはできなくなります。今の世の人々もそうなのです。 「しかし、あなたがたはわたしを見ます」と主は言います。「この見ます」も17節と同じ意味です。復活した主イエスが彼らの前に現れる時、霊の体に復活した主が、弟子達にご自分が生前自分達と共にいた主と信じる力を与えたのです。復活の主に会った弟子達も、主と同じように生きることになるのです。実は私達にも同じことが起きているのです。主イエスを信じる者は救われます。私達はこの福音を聞き、主イエスを信じて救われています。そして世の人々も主イエスを信じて救われるようにと福音を宣べ伝えています。 「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがに分かります」と主が言います。私達が主イエスを信じ救われた日、私達には驚くべきことが起きているのです。しかし、殆どの人がそれを実感していないのではないでしょうか。私は高二の時、主を信じて救われました。バプテスマを受けて何日か後、或る方の家庭集会に出た時、その姉妹に「大谷君、バプテスマを受けて変わった」と聞かれました。確かにバプテスマを受けて礼拝堂の椅子に座った時、十字架が輝いて見えました。しかし自分としては、何か劇的に変わるかもしれないと思っていたのに、それだけだったのです。ですから「別に」と答えました。しかし、主を信じる者なったことによって、私は変えられ、新しい人になっていました。何人かの人に声を掛け、教会に誘い、二人がバプテスマを受けました。でも、自分は商売をして、人を欺すことがあるので、そんな自分は教会に行けないと去った人、教会の交わりに馴染めずに去った人もいました。そして自分も伝道者になりたいと思いが湧いてきました。内にいる聖霊が働きかけたのです。神学部に入学し、今も牧師を続けています。しかし、いろいろな経験もしました。深い悲しみ、挫折、楽しみ、喜びも経験しました。内なる聖霊が意味や理由を教え、新しい道を示し、なすべき事、果たすべき役割を教えてくれました。若い頃、警察に捕まるようなこともしましたが、突き出されませんでした。主はそれを自分自身を深く知る為の重荷として私の心の内に残し、その重荷を負いつつ人と接し、人と寄り添えるようにしたのです。そして今も、主が私の内にいることを意識しながら生きています。主は「その日には」と言いましたが、その日こそが、私達の人生の再出発の日なのです。主を信じるとは、聖霊がこの罪人の私、優柔不断で、したいと願う善を行わず、したくない悪を行ってしまう私の内にいると信じることです。それが本当に分かった時、それが私達の「その日」になります。 |