メッセージ(大谷孝志師)
豊かに受け、豊かに人に与える生活
向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年11月06日
Uコリント9:1-15 「豊かに受け、豊かに人に与える生活」 牧師 大谷 孝志

 私達は与えるよりも貰う方が好きです。与えたら自分のものが減りますし、貰うと増えるからです。有り余るほど持っていても、もっと欲しいと思うのが人間なのです。欲というものには際限が無いようです。とは言え、昔からそれが悪いと分かっているので、欲に引きずられたり、縛られたりすると大変なことになると教える為に、花咲かじいさんや舌切り雀などの御伽話で、欲の無い人が幸せになり、欲深い人が酷い目に遭うと教えています。そのように欲深さを問題にした御伽話はたくさんあります。現代版の御伽話ではあまり死にませんが、良い人や動物、悪い人や動物が死ぬ話もかなり有ります。しかし、自分を犠牲にして死ぬ話となると極端に少ないです。死は滅びで、悲惨なものであり、逝くだけの一方通行だからです。「命あっての物種」という考え方が一般的だからだと思います。人はこの世の事だけ、この世での命の事だけを考えてしまうので、どうしても、自分のものや命に執着してしまいます。自分に判る事しかか判らないのです。

 しかしその限界を超え、自分の命を犠牲にして、人類、特にアフリカの人々の為に自分の人生を捧げた人にシュバイツァー博士がいます。また、自分の財産と自分の人生を捧げ尽くして、インドの貧しい人々、特に病気の人々の為に働いたマザー・テレサもいます。これらの人々はどうしてこの世的に言えば損としか思えない事を、喜んでし尽くしたのでしょうか。

 「損して得取れ」という格言があります。彼らは自分達にとって何か得になる事があるからしたのでしょうか。決してそうではありません。むしろ、最初は好奇の目で見られたり、周りの人にそんな事までしなくて良いと反対されたりしました。また、自分を必要とする人達がいるからという理由だけで、自分の欲とは無関係に自分を与え尽くしたキリスト者もいます。シュバイツァーを始め、彼らはなぜそのような事ができたのでしょう。それは主イエスがご自分の命を全ての人に与えて下さったからなのです。主が十字架にかかって死に、自分の命を捨てて下さったことによって、人が真の愛を知り、人の命がどんなに重いもの、大切なものかを知ることができるようになったからです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ福3:16)。」この言葉が心に響く時、人は神がどんなに自分を、自分と接する人々を大切にし、愛しているかを知ります。人は自分の事しか考えられません。しかし、このみ言葉が心に響くと、神が大切に思っているのは、自分一人ではないと知ります。自分がどんなに豊かに主に愛されていると知ることによって、人の命の重さを感じ取ります。自分を愛するように人を愛する大切さを知ります。その人に愛された人も、自分も他の人を愛する大切さを知る人になるのです。

 主イエスを信じ救われると、人は神のもの、神の民となり、御心を行い。御霊に助けられ、主が世に生きたように、この世に生きる者になります。私達は神にどんな生き方を求められているのでしょう。パウロは「いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」と教えます。シュバイツァーやマザー・テレサも心で決めた通りにしました。その彼らを神が愛し、彼らの思い、願いを実現したのです。だから素晴らしい働きができました。

 主は十字架の氏を前にして「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさいわたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言いました。主はご自身の生き方を、特に十字架の死を通して、弟子達に人が互いに愛し合い、平和を大切にし、互いに憐れみをもって生きるという人として正しい生き方。神に喜ばれる生き方を体験学習させていたのです。そして彼らは復活の主に出会い、神の国のことを教えられ、生前に聞いたみ言葉とみ業、十字架の意味を知らされ、主がどんなに自分達を含め全ての人を愛されたかを知りました。そして主は彼らに、私に従い、私のように互いに愛し合いなさいと教えました。

 主は、自分にとっての大切度によって区別をつけないで愛し、自分と相手に重さの区別を付けないで愛するよう命じました。人は誰も自分や肉親を愛します。主はその愛の大きさ、深さで接する人を愛しなさいとめいじたのです。ある人が「人は自分が愛された分だけ、他の人を愛せる」といいました。私は「自分が」を「主に」置き換え「人は主に愛された分だけ他の人を愛せる」と考えました。主の愛を知る人が、自己愛から自由になり、相手を自分にとっても大切な人と気付くことが出来、愛せるのです。

 イエスを主と信じることは、全ての人とものは主のものと心に決めることです。私達は自分のものを自由に使えます。しかし、それらは私達が自分で自由に使うようにと主が与えたものなのです。そう知るなら、私達はこれは自分ものという思いに執着することなく、自由に人に与えられます。

 主は私達にも「あなたがたは地の塩です」「あなたがは世の光です」と言います。私達の教会がこの地域でこの役割を果たす為には、私達自身が救われた喜び、主を信じる喜びに溢れて、この福音に相応しい生き方が必要になります。しかし自分の知恵や力では、自分という壁を乗り越えるのは困難です。ですから、主の憐れみと平和と愛を求めましょう。そうするなら、主は与えて下さいます。そして主イエスのように、その主の愛を実践したマザー・テレサ達のように、自分という壁を破り、他の人の為に生きられます。主が世の人々為に私達に与えようとしている豊かなものを戴きましょう。私達は豊かな心の持ち主になれます。その思いで人に与え、その人に「あなたがクリスチャンで良かったと」喜ばれたら最高です。主の豊かな恵みを受け、それを人々に豊かに与えられる私達になりましょう。