メッセージ(大谷孝志師)
聖書は良い知らせが一杯
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年11月10日
エペソ1:15-23 「聖書は良い知らせが一杯」 大谷孝志師

 私達は毎日、同じ様な時間を過ごしているのではないかと思うこと無いいでしょうか。でも、今日は昨日とは違う一日です。私達人間に限らず、あらゆる生物は日々変化し、成長しているからです、例えば、毎日見ていると分かりませんが、親戚の子供に何年かぶりに会った時、その変化や成長に驚かされます。私達も日々変化し、成長しているのです。同じように見えるかもしれませんが、決して同じではありません。私達が今礼拝しているのは、主イエス・キリストが、私達にその事に気付かせ、新しい一週を新しい思いで歩み出させる為なのです。私達はこの世に生きていて、新しい事態に直面した時、これからどうなるのだろうと考え、不安になったことはないでしょうか。今の自分やこれ迄の事を考えると不安や恐れを感じることはあります。でも、私達は変わる為に今を生きていると信じましょう。変われるからです。

 今日の聖書にもその事が書かれています、この言葉も、主イエスが私達に与えている言葉なのです。この「あなたがた」も私達のことだと考えて読むことが正しい聖書の読み方なのです。何故なら、全の人は神のものであり、イエス・キリストは全ての人の主であるし、救い主だからです。これが聖書の教えであり、キリスト教の信仰の一番の根幹、根っこであり、幹なのです。

 ですから、この手紙を書いたパウロが言う「私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父」の「私たち」を自分達のことだと思って読みましょう。イェスという二千年前に十字架に掛かって死んで、三日目に復活し、今も生きている方が、見えないけれど私達と一緒にいて、全てを護り導いている主なのです。そしてキリスト、これは神が遣わした救い主という意味の言葉です。主は救い主として現状を変えて下さるのです。人は先の事が分からないので、不安や恐れに囚われます。心が闇という現状の中に生きています。主イエスはその心を光で照らし、自分が置かれている現状にどんな意味があり、将来どうなるのかを教えます。ですから私達は今を、将来を安心することが出来ます。私達の家族、友人知人にとっても、イエスは主であり、キリストであり、救い主なのです。その主イエスの神が、この世界の唯一の真の神なのです。神というと「山の神」家庭の主婦であったり、野球等のスポーツの「神」という言葉が、新聞の紙面を賑わすことがあります。世界の神話にも多くの神が登場します。この世には、様々な「神」と呼ばれる存在がいます。それは老人や女性の姿であったりします。また、人は思い掛けないことが出来たりした時等に、それを神のせいにすることも多いようです。

 それは、誰でも自分が人として、自分らしく生きる為に支えとなる存在、頼れる存在を必要とするからではないかと私は思います。それが神と呼ばれる存在になっていいるのです。私も小さい頃は父に連れられて神社で神に手を合わせたことがあります。しかし何か漠然とした存在でしか有りませんでした。しかし教会に来てみてクリスチャンという人達と出会い、この人達が主イエスという神を真剣に信じていることが分かりました。最初は思い込みと思ったのですが、その主イエスが突然私に語り掛けて来て、本当にいると分かったのです。今はその主イエス・キリストを信じています。主イエス・キリストの神が、栄光の源である私達の父である神とパウロは教えています。

私達は聖書を読んだり、説教や兄姉の証や祈りを聞いて、主イエスがこんな方と心に思い浮かべることは出来ます。心に喜びが生まれてきます。でも私達の父である神のことはただ想像することしか出来ません。パウロは、その神様のことを深く知ることが出来るようになると言いますが、私達人間がいくら考え努力しても、そうぞうするだけなので、喜びは生まれてきません。

 私も教会に来始めて、主を信じる前、神以前に主イエスの姿を心に思い浮かべ、この方が私に話し掛けてきたら、その存在が信じられると思い、気持ちを集中させてみました。でも何の変化もなく、無駄でした。父なる神、主イエスは、人の知恵や力では、神のことを深く知ることは出来ないのです。ですからパウロは「御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」と祈っているのです。この祈りは前に言ったように。この手紙の読者の為ですが、私達の為の祈りでもあります。私達は彼の祈りに応えた父である神が、知恵と啓示の霊を与えられ、その私達の内にいる御霊の働きにより、子なる神主イエス、その父である神がどんな方であるか知らされているのです。実は、御霊は私達が主イエスを信じる前から私達に働きかけていたのです。御霊は私に教会の存在を知らせ、母に私を教会行かせ、先輩に私を教会のクリスマスに誘わせ、教会の、主を信じるって良いことだと感じさせたのです。私達は御霊の働き掛けて、心の目を開かれて、神を礼拝していると感謝しましょう。

 パウロは「神の召しにより与えられる望みがどのようなものか」を読者が悟るように祈ります。この手紙の読者は私達ように「聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たち」です。しかし彼は、主イエスを信じ、主に忠実に生きていても、どんな希望てを与えられているのかを悟れない人々がいると知っていました。実は、60年以上主を信じて生きていも、私にどんな希望が与えられているのか、考え込んでしまう時があります。神は私の全てを知っていても、私は御心が何なのかを分からないからです。牧師をしていても、神との関係は一方通行のままです。しかし、私の内に住む御霊に御心を知らされると、それを行えます。私がこうして説教が出来るのもその為、皆さんが神に招かれているからとここにいるのです。神が皆さんを愛して、知って欲しいと願っているからです。私達は礼拝後、世に出て行き、世に生きます。 そして彼は「聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に満ちたものか知ることができるようにと祈っています。私達は一週間のこの世での生活の中で、何らかの罪を犯してここにいます。ですから、聖徒だなんてとんでもないと思います。しかし、何故私達はこの神を礼拝する場にいるのでしょう。私達の為に主は十字架にかかって死に復活して私達を招き、共にここにいるからです。私達は神に愛され、聖徒として受け入れているのです。世の常識や基準ではそうでなくて、神が私達をそう見て、そう扱っているのです。自分はこんな罪を犯したから将来もこんな人としか生きられないだろうと考える必要は全くありません。人は誰でも「聖徒」として受け入れられているのです。

 そんな良いこと尽くめな事があるのかと思わなくてもよいのです。確かにこの世の常識とはかけ離れています。でも私達は、目に見えるこの世という世界、主を信じる者が生きる信仰の世界、神の国、神が全てを支配している世界に生きているのです。主イエスはルカ17:20,21で「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです」と言います。私達は今、そしてこの世に出て行っても、神の国に生きているのです。神は、私達信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものを知らせてくれるのです。パウロのこの手紙の読者への言葉は、主イエス信じる者には、こういう希望が与えられていて、このような神の力を実感できると知らせています。この手紙に限りません。聖書には、全ての人に与えられる良い知らせ、福音で満ちています。聖書こそは最高の書物、そして神様から素晴らしい手紙なのです。私達もこの福音を心に納め、世の人々に届ける配達人、そして説明人になりましょう。御霊が助けてくれます。