メッセージ(大谷孝志師)
赦すことの意味と重さ
向島キリスト教会 礼拝説教 2024年11月17日
マタイ 18:15-35 「赦すことの意味と重さ」 大谷孝志師

 教会に限らず、私達は様々な人との関わりの中で生きています。主は「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。」と言います。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります」と教えました。主は、赦すとは愛することなのです。相手との兄弟姉妹の関係を回復することですと教えるのです。相手が私に対して罪を犯したとしたら、その時、相手は自分がどう思うとも、私との兄姉の関係を断ち切り、お互いに兄姉でなくなっているのです。ですから、種は第一段階として、兄弟が自分に対して罪を犯したら、二人だけのところで忠告しなさいと教えます。事を大きくせず、先ず相手と自分の関係の中で解決を図れと教えたのです。他人が入ると問題が複雑になってしまうことが多いからです。しかし当事者同士では、どうしても感情的になってしまい、解決できない場合があります。ですから主は、その時の為に、第二段階として、他に一人か二人を連れて行きなさいと教えます。相手がしてしまったことの意味の大きさを、相手に気付かせる為には、事実はどうだったのかを客観的に確定することが必要だからです。相手のしたことは確かであっても、悪い事をさせてしまった自分に油断があったとか、隙を見せたとか、いろいろな要素が絡み合ってくることがあります。ですから、当事者同士で解決しようとせず、他の一人または二人の考えを聞きながら、その事実の自分と相手にとっての意味を客観的に明らかにすること、一旦犯した罪の事実から距離を置くことが必要なのです。それによって、罪を犯した人が、自分が犯した罪の重さを深く自覚し、罪を悔い改めて、相手に心からの赦しを乞い、相手との兄弟姉妹としての関係を回復する余地が生まれ、断絶しかけていた関係が主によって結ばれ、回復する道が開けるからです。

 しかし、利害関係が深く厳しく対立した場合には、当事者同士での第三者が入っても解決できない場合もあります。ですから主は、第3段階として、教会に申し出て、教会に与えられている権威によって解決を図りなさいと教えます。教会にはペテロに与えられた天の御国の鍵(マタイ16:19)が与えられているからです。主はその権威は16において主に「あなたは生ける神の子キリストです」と信仰告白をしたペテロに、主はこの信仰の上に教会を建て、その告白をした彼に御国の鍵を与えました。教会はキリストの体であり、主の臨在によりその権威が保証されているのです。しかし、これが最終段階なのではありません。「その人を異邦人や取税人のように扱いなさい」と主は言います。これは罪を犯した人を神の民から除外せよと主が命じたのではありません。そうで半句、その人を福音を伝える対象、神の救いの対象とみて、愛をもって働き掛けなさい」主は教えているのです。主イエス・キリストは自分に罪を犯した人に対して最大限の配慮をしなさいそれが相手に必要だからと主は教えます。それにより14節の「迷い出た一匹の羊」の例えに示されている「天におられるあなたがたの父のみこころを」行う者になれるからです。

 この流れの中で考えると、20節の「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」とのみ言葉は、個人で努力することは勿論大切ですが、教会は人間の集まりであり、人間の血から、知恵や配慮には限界があり、最終的には、罪を犯した人に対して、主の名によって集まっている裁きの場に、その人がご自分の民となるよう追い求めているイエス・キリスト、天の父なる神の御子、救い主である私が共にいることを思いつつ対処すべきと主はここで教えているのです。最初に言ったように、赦すことは愛することなのです。単に忘れ去ることなのではありません。赦すとは相手を受け入れ、相手と共に、主イエスと共に生きることなのです。

 さて、ユダヤ教では兄弟が犯した罪は三回までは赦せと教えました。しかし主は、七回罪を犯しても七回悔い改めるなら赦しなさいと教えていました。しかしペテロは、主が命じるなら仕方がないが、七回までと限って良いでしょうかと主に尋ねたのです。すると主は彼に「七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです」答えました。490回までと言ったのです。「赦されざる罪」がテーマの「491」という映画がありました。しかし主は491回目は赦さなくて良いと言ったのではありません。徹底的に赦し通せと言ったのです。

 そして主は弟子達に、赦しで大切なのは回数ではなく、心ですよと教える為に「一万タラントの負債のある家来」の譬え話をしました。エルサレム神殿を建てたヘロデ大王の年収が約900タラントだったそうですから、一万タラントは個人の負債としては途方もない額になります。主はここで人間の罪の深さと重さをこの数字で示したのです。しかし主は「らくだが針の穴を通るほうがはるかに易しい」などの例えを使って、それを忌諱する人に驚きを与えて、この話の内容と意味に集中させるユーモアの持ち主でもあったのです。

そして主は、神が人を赦したことことに対し、人に対価として求めるものが有り、それは何かをこの譬え話で明らかにしていきます。この家来の主君は、彼が連れて来られると彼に「自分も妻子も持ち物全てを売り払って返済するよう命じます。そうしても、恐らく一タラント(600デナリ、傭兵20年分の日当)にもならなかったと思われます。しかし主君は、家来がひれ伏して主君を拝し、「もう少し待ってください。そうすれば全てお返しします」と願うと、可愛そうに思って、その負債を免除してやったのです。一万タラントという莫大な自分の金を、主君は彼に与え、彼が平穏に生活できるようにしたのです。私達に置き換えるなら、私達が信じる神は、私達が自分が犯した罪の赦しを神に願うなら、無条件に赦して下さる方なのです。私達の父なる神はヨハネ3:16に有るように「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された方なのです。神は御子の十字架の死という大きな痛みと御自身の犠牲を払って私達を救い、永遠の命を持つ者として下さったのです。

 次に主は、この家来の60万分の1の負債がある仲間を登場させて、彼の主君と正反対の対応をさせ、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さを私達に教え、その神とは正反対の人間の心の貧しさ、愚かさを明らかにします。人は、自分がして赦して貰った悪い事は忘れても、自分が相手にされた悪い事は決して忘れないものです。何故でしょう。自分が相手にした悪い事と、相手からされた悪い事では、その重さの差がが60万、正に天と地ほど違うからなのです。

 主君はその家来の仲間から彼がした事実を聞くと、彼を呼び付け、自分がして貰ったように憐れんでやるべきではなかったかと言い、怒って負債を全て返すまでと、彼を獄に入れます。莫大な負債は死ぬ迄でも返済不可能です。獄に入れられたら尚更です。主は、相手の罪を赦さない人は、永遠に神に赦されないと警告したのではなく、人は犯した罪を赦され、平穏に生きる道があると教えているのです。人は主イエスを信じれば、主の十字架の贖いによって罪を赦され救われます。しかし主を信じることが必要なのです。その信仰は「心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くして、私の神を愛し、私の隣人を自分自身のように愛し、主が私達を愛したように、私達も互いに愛し合うことです。その一つとして、心から、徹底的に相手を赦せと教えます。私達は自分に負債を負わせた者を赦せないと思い、忘れません。自分が苦しんでいるのに、相手がのほほんとしていると尚更赦せません。赦すなんてとてもできないと思います。しかし主は、人は神から途方もない負債を赦されていることに気付きなさいと教えています。主の願いは、私達が互いに赦し合い、兄弟姉妹として愛し合い、一人一人が、神の子供となり、主の民、主の牧の羊となり、共に神の国、教会の交わりの中で生きる者と成ることなのです。