メッセージ(大谷孝志師)
人は正しく生きられる
向島キリスト教会 祈祷会説教 2024年11月27日
ローマ 15:1-21 「人は正しく生きられる」 牧師 大谷 孝志

 或る事が、善であるか、悪であるかの考え方は人によって違います。同じ悪を行った人を見ても、人間だからしょうが無いと考える人もいれば、人間らしからぬ事をしたと考える人もいます。それに、何が良くて何が悪いかは、時代によっても、生きている社会によっても違ってくるものです。

 しかし主イエスを信じるということは、この世とは別の善と悪の基準をもって生きることなのです。その基準で、主に喜ばれる事なら善であり、主に喜ばれない事なら悪であるということになります。そして具体的に、何が善で何が悪かの実例を聖書が私達に示しています。しかし実際問題として、聖書が善だと示す事を全て守ることなど人には決してできません。また、具体的に自分がした事が主に喜ばれるか、喜ばれないかを、主がその都度示してくれません。後でその結果から、これは善であったか悪であったかを判断するしかないのです。真剣に考えると、一体何が善で何が悪なのかが、分からなくなってしまうのが、私達人間の現実なのだと私は思います。それに、私達は相手が何を考えているかも分かりません。想像は出来ます。でも、それが真実かどうかを確信できないのもまた私達の現実です。

 パウロは「あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています」と言います。でも私達は、自分が善意に溢れ、あらゆる知識に満たされているとは考えられないでしょう。ましてや、相手を訓戒できる人間だと考えたことも無いのが殆どの筈です。しかしパウロは、あなたがは善意で溢れており、あらゆる知識に満たされているので、互いに訓戒し合ううことができると言います。そしてこの事は、全ての主イエスを信じ救われた人に起きている霊的事実なのです。主を信じ、救われているなら、主がその人ができる人になる為に、知恵と力を与えているのです。この手紙の読者のローマの「家の教会」の人達も自分達を見て、恐らく信じられなかったと思います。私達もそうだと思います。しかし、彼らにも私達にもこれは事実なのです。

 聖書は私達に後ろ向きの人生ではなく、前向きの人生を示しています。パウロも「私は、…うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」と言います。主イエスを信じるなら、人は過去に縛られずに、希望と喜びをもって前進できます。

 ある父親が主に「おできになるなら、私達をあわれんでお助けてください」と願った時、「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできる」と言い、兄の死を悲しむマルタに「生きていて私を信じる者は皆、永遠に決して死ぬことはありません。あなたはこのことを信じますか」と言います。私達はその主が全てを支配する世界に生きています。

 それなのに、私達はこの世の常識に囚われて、主イエスが共にいる信仰の世界に自分がいるいることを忘れていることはないしょうか。でも、主イエスがいると信じていることは忘れないので、主に祈り、問い掛けをします。でも、ヨハネ3.4章のニコデモやサマリアの女性のように的外れの問い掛けになってしまい、力も喜びも湧いてきません。聖書には、主イエスが行った素晴らしい出来事がたくさん記されています。ヨハネは20:31に「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」とそれらが書かれた理由を記します。私達は初代教会以来、主イエスを、父なる神がこの世に遣わした御子で、救い主と信じています。Ⅰヨハネ5:5にも「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか」とあります。主を信じ、主が共にいると信じるなら、自分は、主イエスというぶどうの木に繫がっていることも信じましょう。主に繫がっているなら、主が世に生きる為に必要なものを豊かに与え、善意に溢れ、あらゆる知識に満たさて互いに訓戒し合える私達になれるからです。言葉や口先だけで主を信じていても、主に繫がっていると信じていなければ、主が与えようとしている恵みと力と覆い尽くす愛が、頭の上を通り過ぎてしまいます。私達が、神に喜ばれる正しい人として生きられないと感じるとしたら、それはこの世と調子を合わせていて、自分の体を、神に喜ばれる聖なる生きた献げ物としてして献げていないからなのです。

 パウロは、「心を新たにすることで、自分を変えていただききなさい」と私達に決心を求めます。変わることが必要なのですが、自分の意思で変わることは困難です。主に願い、主に変えて頂きましょう。その為には自分の心をしっかりと向け直すことが必要です。「そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるかを見分けるように」なれます。不可能だと自分で決め付けて諦めずに、信じましょう。主イエスが支配する新しい世界に飛び込んで、主に全てを任せましょう。

 パウロは、誰でも神に喜ばれる正しい人として生きられるという福音を懸命に伝えています。何故なら、その為に主イエスが十字架に掛かって死に、全ての人に救いの道を開き、復活して共にいて、その道を主の証人を用いて教えさせ、その道を歩み続けられるよう助け導いているからです。その事を具体的に教える為に、神は私達に聖書を与えています。聖書は人が正しく生きる為に何が必要なのかを教え、主が手本をご自分の公生涯を通して示しています。しかし、教えられ、示されてもできない私達です。ですから主は、御霊を助け主として与えるよう父に願ったのです。主は、私達が神に喜ばれる正しい人として生きられるよう万全の体制を整えています。その主を「信じない者ではなく、信じる者」になりましょう。主は私達が心から主を信じ、正しい人として生きる者となるのを待っています。