| メッセージ(大谷孝志師) |
| 救われた喜びを伝えよう |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2024年12月22日 ルカ 2:8-14 「救われた喜びを伝えよう」 大谷孝志師 |
羊飼い達が野宿しながら、羊の群れの夜番していた時、主の使いが彼らの所に来て、救い主の誕生を知らせました。夜は闇が地上を覆う時です。子供の頃、トイレはボットン式で昼間はそうでもなくても、夜は穴から何かが出て来そうで恐かったのを覚えています。ものが見極めにくくなることから、夜には不安や恐れの感情が伴います。ユダが主への裏切りを実行したのも「夜であった」とヨハネ13:30にあるように、夜は悪が支配する時を象徴します。 その夜の闇を打ち払うように、主の栄光が羊飼い達の周りを照らした。世は闇で覆われていても、彼らが光の中にいること、神が共にいることを彼らに知らせたのです。ヨハネ1:9に「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」とあるように、イエス様は闇の中に輝く光、全ての人を照らす真の光なのです。その主イエスの誕生が知らされるなら、その人は光に照らされ、光に包まれるのですと、今日の聖書は私達に暗示しています。 この世の現実はどうでしょうか。戦争紛争が続き、怪我や病気に苦しむ人、家族の問題や悩みを抱えている人、現状や将来に不安を抱えている人、様々な人々が闇の中で蠢いています。自分を照らす真の光が輝いているのに、自分の思いという厚い布で自分を覆い、その中から出ようとしないのです。そこから出てみれば、光の中で生きられるのに、閉じ籠もったままなのです。 全ての人の為に、全ての人の救い主となる為に主イエスが生まれた知らせが、先ず羊飼い達に知らされたのは何故でしょう。ユダヤでは豚飼いは卑しい職業とみられていましたが、それと違い、羊飼いは卑しい職業でも、貧しさの象徴でもありませんでした。むしろ理想的生活者と考えられていました。彼らの生活は正に生きる為の戦いの連続です。羊を危険な場所や状況から護り導き、また、井戸水や牧草地の確保の為に戦い、野獣や強盗に棍棒で戦わなければならなかったのです。決して柔弱ではなく、むしろ質実剛健でした。彼らは自然や外敵に対して頼りになるのは自分の力と知っていました。しかし、傲慢に自分の力を誇るのではなく、その闘いの中で自分の弱さも思い知らされていた人達だったと言えます。また、彼らは信仰深い人達でした。自然を含めた外からの脅威との戦いを経験する中で、、主に頼らざるを得なかったのです。強さも弱さも持ち、主に全てを頼るそのような人々だったからこそ、救いを求める全ての人の為の救い主の誕生が第一に知らされたのです。 勿論、羊飼いは王侯貴族でも将軍でも、大商人でもありません。しかし、羊飼いは「羊のために命を捨てる(ヨハネ10:11)」と主が言ったように、羊を護り、外敵と戦う為に命を惜しまなかった人達なのです。主イエスが全ての人の為の「真の羊飼いです」と知らせる為にはぴったりの人達だったのです。 その羊飼いの人達が、主の栄光に包まれたのです。主の恵みが彼らの上に降り注いだのです。勿論、王侯貴族、将軍、大商人にとっても、人生は闘いであることに違いはありません、人は誰も、自分や家族や或いは部下や同輩の為に自分にしか分からない苦労を背負って生きています。しかし羊飼いに主の恵みが降り注いだことによって、仕事や金に頼る人、他人のせいにしたり、他人に責任を取らせる人ではなく、自分の力で相手と戦いながら、主に頼り、主に委ねて主と共に生きる人を、主が祝福すると聖書は教えています。 羊飼い達に主イエスの誕生が知らされた夜に降り注いだ主の恵みは、今も全ての人の上に降り注いでいるのです。教会とは何なのか、イエスがどんな方かも知らないでいた私は、ただ母が教会に行ってみなさいと言うから行っていました。しかし町で教会の先輩に誘われて出て、人生で最初に体験したクリスマスの燭火礼拝が、私の人生を大きく変えるクリスマスとなりました。そんな私にも主の恵みが豊かに降り注いでいるのを実感させられたからです。 その日、ローソクの光に照らし出され人達の顔、特に、隣りに座り、私のロウソクに火を移した老婦人の顔の輝きに大きな衝撃を受けました。それは、主の恵みが降り注いでいる人の顔の輝きだったのです。私は驚きと同時に、心に温かいものを感じたのです。その夜、私の人生は大きく変わったのです。全ての人に与えられる大きな喜びの主イエスの誕生が私にも起きたからです。主イエスが私の内に生まれたのです。しかし、その主イエスは布にくるまって飼馬桶に寝ているみどり子のようなイエス様でした。東の方から来た博士達、幼子に成長していたイェス様に会った彼らは、ひれ伏して礼拝し、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。しかし私はまだ、主が私の内にいると感じても、もう一つピント来ませんでした。私の主、救い主とは信じられなかったのです。信じたいと思い、礼拝や集会に出続けました。先輩にそろそろ受けないと聞かれても良い返事はできませんでした。しかしその三ヶ月後、イエス様が突然、ただ声だけでしたけれど、私に語り掛けてきました。私は信仰告白をし、バプテスマを受けました。そして会堂の十字架を見上げた時、その十字架に輝きを感じ、自分にも主の恵みが降り注いでいるのを感じ、大きな喜びに満たされたのです。生まれ変わった私は、教会学校の教師をし、様々な活動に参加する中で、伝道者になりたいと思い、大学の神学部に進む決心をしました。一人っ子の私の献身を両親が心配しているのではと、牧師が私の家に説明に来、私をバックアップしてくれました。 しかしそれが自分の思い込みに過ぎないのではとの疑念が生じたので、止めますと牧師に言いました。しかしその一年後、高三の時でした。水曜夜の聖書研究祈祷会に出ていた私は、牧師がヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがを選び、あなたがたを任命しました」を読んだ時、突然、主の光の中にいるのを感じたのです。蛍光灯は点いていました。しかし私は、それよりも遙かに明るい光に包まれました。十人ほどの出席者がいましたが、皆静かに牧師が読む聖書を聞いていました。他の誰にもその光は見えなかったようで、何の変化も驚きもありませんでした。しかし。私は光に包まれていました。自分は伝道者になりたいと思っていたから、自分の思い込みではないのかとの迷いが生じたのでした。そうではない、主がわたしを選んでいて下さったから、私は決心したのだと気付かされたのです。私を包んだ主の光が、私の人生を180度、決定的に転換させたのです。 主の光は今も全ての人を照らし、包み込んでいます。そして主の恵みは雨のごとく降り注いでいるのです。しかし世の多くの人々は恵みの雨のごとく降り注ぐ主の恵みの光を、かつての私のように感じ取れないでいるのです。 私達は今、主の恵みの光が降り注ぎ、ここが神の国とされていることを知っています。ですからイエス様を主、キリスト、救い主と信じ、礼拝しています。降り注ぐ主の恵みの光が私達の心を闇から光に変え、私達の交わりを光に照らされた豊かな愛に満ちたものとして下さっているから、主が共にいる平安と喜びで満たして下さっているからです。ですから私達は今日、主イエス・キリストの降誕を皆で心から感謝し、クリスマスをお祝いしています。 イエス様が生まれた日に、主の栄光が羊飼い達の周りを照らしたと聖書に書かれているのは、今に至る迄、全ての人を主の栄光が周りを照らし、主の恵みが注がれていると知らせる為です。私達がクリスマスを祝っているのも、主を信じ救われて、主と共に生きている事も、全ての人に主の恵みが今も降り注ぎ、主の光がその人の周りを照らしているしるしとなっているのです。 闇の中にいながら自分が闇の中に生きていると気付かず、暗中模索している多くの人が、一人でも自分の為に主イエス・キリストが生まれたと知り、自分に与えられている恵みと喜びを味わって、光に照らされている自分を知り、恵みと平安の中に生きられるようにと私が救われた喜びを伝えましょう。 |