| メッセージ(大谷孝志師) |
| 新年に御前に立つ |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2025年1月5日 イザヤ 43:16-20 「新年に御前に立つ」 大谷孝志師 |
正月、特に元旦は何か身が引き締まるのを感じます。しかし、考えてみますと、新しい年がくると何故めでたいのでしょう。12月31日午後11時59分59秒と1月1日午前0時丁度では瞬きする程しか変わらないのに、テレビでは「おめでとうございます」の連発が0時の時報と共に始まります。私達は二週間前にクリスマス礼拝を守り、祝会をして主の降誕を皆で感謝しお祝いしました。クリスマスチャペルコンサ-トの時もそうでしたが、大勢の教会員の家族、友人知人が出席しました。先月の初めには尾道刑務支所有井作業所のクリスマス会に有志の方々と共に出席、9名の受刑者の方々に主イエスを信じて生きる喜びを伝える機会を与えられました。また、街角クリスマスキャロルでは地域の諸教会の方がと共に道行く人々にクリスマスの喜びを歌で知らせました。クリスマスおめでとうと何回言ったでしょう。イースター、ペンテコステも大切な礼拝ですが、クリスマスは一味違います、皆で心を合わせて準備して、行った喜びに満ちたクリスマスになり、主に感謝でした。 クリスマスは何故そんなにおめでたいのでしょう。それ程に一つの目標に向かって皆が心を合わせられたのでしょうか。それは、クリスマスが私達にとって本当に大切な主イエス・キリストの降誕を祝う日であり、時が満ちて神様の全ての人を救う計画が実行に移されたことを感謝し祝う日だからです。 それでは新年は何故めでたいのでしょうか。私達にとって何が起きた日、何が始まった記念日なのでしょう。実は、世の人々にとっては、何も始まっていないし、起きてもいません。ただ新しい年が始まったというだけの思いの人が殆どではないでしょうか、しかし、私達は、主イエスを信じて救われ、過ぎ去った古い時でなく、新しい時に生きています。でも、新しい自分に変わりたいと思ってもなかなかできないのが私達だと思います。それで年が変わると自分も相手も変われるかもしれないとの思いから、新年を迎えた時「明けましておめでとう」という挨拶の言葉が出て来るのではないでしょうか。 しかし、今朝の御言葉が私達に教えることは違います。私達一人一人の人生に於いて大切なことが既に起き始めていると教えています。今は正月ですが、年度で言えば、2024年度の途中で、これから3月迄の途中の時なのです。 16節に、主は「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け」とあります。17節と共に、これは出エジプトの時に紅海が二つに分かれ、その間をイスラエルの民が安全に通り、追ってきたエジプト軍が水に飲まれた奇跡を示しています。イスラエルを神の民とした神はこのような方と教え、私達がどのような神を信じているのかを聖書は明らかにします。今、私達はその神の御前に立たされていると心に刻みましょう。私達はその神を信じているので、水の中を通っても押し流されず、火の中を歩いても焼かれない私達と信じているでしょうか。その神の御前に立つ私達に、「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな」と主は言います。ここに、新年礼拝に当たりこの御言葉が与えられた理由があります。私達は新年に当たり、様々な思いを抱いたことと思います。その時、善い事だけでなく、昨年は充分にできなかった事、したいと思ったが決断できなかった事、悪いと思ってついしてしまった事を思い出したのではないでしょうか。しかし、それらを思い起こすことには意味がないと主は言います。したいと思って「出来なかったことをを今年は出来る、悪いと分かりながら、してしまったことを、今年は我慢できる自信は有るでしょうか。また、昔は善かった。昔の人は偉かったなと思い出しても、今の私達に同じようなことが出来るでしょうか。私達人間はそれができる程強くはないと私は考えさせられています。後三ヶ月で新しい局面に立たされるこの教会にとって、このことが非常に大切になるからです。 しかしこの事を考える時、大切なことは、私達は素晴らしい神様を信じ、その方の恵みと祝福の中に生きているということです。天の御国に、神様が支配する領域の中に私達は生きているのです。人にはできなくても、神には何でもできるとイエス様は弟子達に教えました。神を信じているとは、何でもできる神を信じていることなのです。それだけではありません。「信じる者には、どんなことでもできる。(マルコ9:23)」のです。更に主は「からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことはなにもありません。(マタイ17:20)」とも言いました。主は私達に常に「これを信じるか」と問い掛けています。マルコ9章の父親のように、「信じます。不信仰な私をお助けください(マルコ9:24)」と答えられるでしょうか。新しい年を迎えた今、静かに自分の信仰を顧みましょう。 主は「見よ、わたしは新しいことを行う」と言います。主は「行う」と言えば、何でもできる方です。主が行おうとしている新しい事はどんなことか考えてみましょう。自分が期待するものは脇に置いておいて、主が何をしてくれたら嬉しいか考えてみましょう。正月らしくスケールの大きいこと、こうなったら最高に良いと思うことを考えてみましょう。小さくまとまっていたかもしれない、これ迄の自分の信仰に縛られずに、無限大の力を持つ神の愛に心を向けましょう。そして、見えない神に目を留めましょう。その主が「今、それが芽生えている」と言うからです。エレミヤ29:11にその主の言葉があります。「わたし自身、あなたがたのために立てた計画をよく知っている。ーー主のことばーーそれはわざわいの計画ではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」。主が、私達の教会の来年度の歩みの為に計画を既に立てているのです。そして今、それは芽生えているのです、既に実行に移されています、と主は私達に教えているのです。 来年度の事を考えると、様々な不安を感じるかもしれません。しかしこの教会は、キリストが頭であり、キリストの体です。私達のものではなく、主のものなのです。私達が頑張ってどうにかすれば、どうにかなるものではありません。私達の願い、望みを主に伝え、それを主にさせて頂き、それを私達がすることによって実現し、見える形になるのです。出来るだろうかを考えるのではなく、先ず、主が私達を変えよう、成長させようとしているのだと気付き、その主を信じましょう。その信仰に立ち、自分達の力で、勿論、主に助けられて行えば良いのです。その為には、この教会に今年度起きた出来事の中に、主が私達一人一人のために始めておられる新しい事の芽生えを見つけ出しましょう。聖日礼拝、祈祷会、様々な集会の中でしてきた事、起きた事を顧みましょう。「今、それが芽生えている」と主が言うように、既に変化が起きています。恵みを数えましょう。その恵みを見つける度に、私達の信仰が成長して行きます。来年度の歩みの為の準備が既に始まっています。 そのような過去からの学びの上に、将来に向けての歩みを積み重ねましょう。その為には、もっと共にみ言葉を学び、祈る機会を作りましょう。「二人または三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです(マタイ18:20)」と主は言います。個別にではなく、集まって祈り合う私達を主は喜び、祝福してくれます。そして、主が共にいる、祈りを聞いていることを意識しながら、願い求めている事を主に語り掛けましょう、そこに私達の将来があると信じましょう。そうすると来年度の日々が「今は恵みの時、救いの日」となります。私達が群れを作って祈り合うなら、主が与えている恵みを実感できる群れとして下さいます。その主の御前に立っていることを意識し、共に祈りましょう。自分達が変わり、主が始めた新しい事の芽生えが見えてきます。主は言います。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。(43:4)」私達はその主のみ前にいるのです。 |