メッセージ(大谷孝志師)
共に担い合って生きよう
向島キリスト教会 祈祷会説教 2025年1月8日
ローマ 15:1-13 「共に担い合って生きよう」 牧師 大谷 孝志
 パウロは1節で「私たち力ある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。」と言います。この世には強い人もいれば弱い人もいます。弱い人は強い人を見て、羨ましさや引け目を感じてしまうことがあります。小さなグループ程、強い弱いが分かり易く出て、それで上下関係が決まり、弱い者は強い者の意志をそのまま受け容れ、従わざるを得ない場合が良くあります。でも、仕方がないと諦めてしまうと、強い者にも弱い者にとっても良くないことになります。

 教会の中にも、強いと思われている人、弱いと思われている人がいます。賜物を用いて様々な奉仕をする人もいれば、奉仕をしたいと思っても出来ない人、自分の為の事は出来ても、人の為に何かをするのが苦手な人、お節介と思われては嫌だと躊躇する人、或いは自分は他の人のようにはできませんと言う人などと様々です。誰もが強さと弱さを併せ持ってはいます。しかし、自分の強さを人に認めて貰いたい、弱さを隠していたいと思ってしまうのが人の常なのです。弱い犬ほどよく吠えると言うように弱いから周囲に対して強く出てしまう弱さも人は持ちます。また、人は強くありたいと思い、弱い人は自分は駄目だと思いがちです。向上心として良い方に働く時は良いのですが、相手を卑下したり、簡単に裁いたり、切り捨てたりもします。しかし教会は違います。パウロがTコリンの12:22で「からだの中で他の部分より弱く見える部分がかえって無くてはならないのです」と言うように、誰もが群れの中で必要な存在と認め合うのが教会なのです。

 信仰を持つ素晴らしさはそれを知ることにあります。主を信じ、主に愛されている者は、人を裁いてしまう弱さから解放されます。主の前では、人の能力や強弱の差はないに等しいからです。その主が一人一人に「わたしの目には、あなたは高価で尊い」「私はあなたを愛し、あなたが大切だから、あなたの為に十字架に掛かって死んだのです。復活して、いつもあなたと共にいます」と語り掛けているのです。それなのに、自分と相手との違いが気になって、教会の中でも裁きが生じることが有ります。 人は誰も、自分なりの基準、許せせると許せない基準線を持っているからです。しかもその基準線は人によって違い、相手によっても違いが出ます。少しの事に我慢できない人もいれば、かなりの事まで我慢し続けられる人もいます。少しでも自分の基準に合わなければ受け入れられない人、広い心で相手を受け入れられる人と様々だからです。あなたが厳し過ぎるから友達が出来ないのだと言う人も、その寛容さが相手を駄目にしていると忠告して来る人もいます。どうしても何か気になる事があると正そうとする弱さを人は持つからです。自分は善意のつもりでも、それも裁きなのです。教会も人の集まりなのです、誰もが区別や差別をする弱さを持つと注意しましょう。

 パウロは14章で「食べ物の事で神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです」と言いました。食べ物ついての主義主張の違いが教会の中にあって、それが交わりに影響を及ぼしていたようです。神が天から、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥が入った大きな敷布のような入れ物を地上に降してペテロに見せ、屠って食べよと命じました。彼が拒否すると「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と言います。神はこれを三度繰り返します。初代教会の人々はまだ旧約の食べ物についての戒めを守るべきとの考えに縛られていて、食べ物を食べることの良し悪しで、相手と裁き合うことがあったからです。神は、それが間違いであることをペテロにこの事を通して教えたのです。

 これを私達に置き換えて考えてみましょう。教会の交わりの中にいる一人一人は、主が十字架に掛かって死ぬほどにその人を愛している人々なのです。そして主がきよい者として受け入れ、教会の交わりの中にに招き入れた人なのです。その人の言動の善し悪しで、その人が主に相応しいか相応しくないかを決めてはいけないのです。今から50年以上前に政治的問題から教会闘争と呼ばれる事件が多くの教会で起きました。そして牧師が教会から追放され、青年を中心に多くの人々が教会から去りました。裁き合いによって日本のキリスト教が大きく後退してしまった悲しい時期でした。

 何が正しく、何が間違っているかは確かに問われなければなりません。ですから人の誤りに気付き、注意しようとする時、それが裁きにならず、相手を助ける為になるようにすることが大切です。相手と対峙するのでなく、寄り添う思いが必要です。判断する時、基準としているのが自分の信仰と気付きましょう。聖書は「全て霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」でも聖書を用いる私達は人間です。聖書を用いて相手を正そうとしても、傷付けてしまったら、本当に強い者とは言えません。ですから彼は「私たち力ある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。」と教えます。「べき」は義務であり、負い目を意味します。強い者は何故強いのでしょう。主がその人にその為の知恵と力を与えたからです。弱い人は自分の弱さから生じる様々な制約を負っています。強い人はそれを担い、皆が安心して共に生きる仲間となる為に自分がいるとの思いを持ちましょう。強い人が弱い人の弱さをその人の問題、責任と考えて切り捨てたら、教会は成長しません。強い人は弱い人の弱さを自分の重荷として担いましょう。私達は主に「信仰と希望と愛」を与えられているのです。主が私達のお手本です。先ずその主を見、主が共にいる自分を見て、主に知恵と力を与えられ、その主に倣い、相手と共に生きましょう。主に愛されている者が共に支え合い、寄り添い合って生きる為に私達はここにいるのです。教会に強い人と弱い人がいるのは、私達が共に成長する為に必要だからと気付きましょう。