| メッセージ(大谷孝志師) |
| 平安を残し与える主 |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2025年1月12日 ヨハネ 14:26-31 「平安を残し与える主」 大谷孝志 |
今日の話は、13:1に「過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみ許に行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして,世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された」時のことです。主イエスが弟子達の足を洗い、彼らと最後の晩餐を行っている時、サタンがイスカリオテのユダに入り、彼は主イエスを祭司長達に売り渡す為に出て行きます。その後、世に残る弟子達の為に話した告別説教とも言える17章迄の長い言葉が記されていて、今日はその箇所の一部を通して学びます。 14:1に「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」とあります。主にいなくなると言われ、主の姿が見えなくなることで心を騒がせている弟子達の為に、主は11月10日に話したよう父に願うので、父に助け主、真理の御霊を彼らに与えるよう願うと言いしました。 主はその助け主、すなわち、父が主の名によって遣わす聖霊が彼らに何をして下さるかを教えます。「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」と。彼らは約二年半、自分のそれ迄の生活を捨てて主イエスに従い、主と寝食を共にしています。その主がこの世を去り、主と共に生活できなくなると言われたのです。生き甲斐にし、頼り切っていた主が居なくなるのです。人生が根底から崩れていくような感覚に囚われたと思います。聖霊が自分達に遣わされて、全ての事を教えてくれ、主が自分達に話した全ての事を思い起こさせてくれるとしても、先の事です。主が約束しているとしても、その主がいなくなってしまうのです。彼らの心は不安で一杯だったでしょう。彼らの心の内を知る主は「わたしはあなたがたに平安を残します」と言います。所で、聖書は皆さんにとって何でしょうか。何故,聖書を読むのでしょう。何故、祈るのでしょう。私達は十字架に掛かって死んだ主イエスが復活し、今ここに共にいると信じるから、主を礼拝し、讃美し、祈り、説教を聞いています。何故そうしているのでしょう。主の復活の五十日後に弟子達に聖霊が降り、聖霊に教えられ、主が自分達と共に生活する中で話した全ての事を起こさせ、新しい時の中で新しい歩みを始めさせました。「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」との主イエスの約束が実現したからです。そして、このペンテコステの日に、十一人の使徒達と共に立って語ったペテロの主イエス・キリストの十字架と復活の話を聞き、その意味を知った人々にも、この約束が実現します。聖霊に満たされて語った使徒達の言葉に聖霊が働き、聞く人々の心を激しく動かしたからです。人々は使徒達に「私たちはどうしたらよいでしょうか」と言います。そこでペテロは彼らに「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば,賜物として聖霊を受けます。この約束は,あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に,すなわち、私たちの神である主が召されている人ならだれにでも,与えられているのです」と勧めたのです。その日、彼の言葉を受け入れた人々はバプテスマを受け、三千人程が仲間に加えられ、キリストの教会が誕生しました。聖霊が使徒達に全てのことを教え、主が彼らと生活を共にする中で話した全ての事を尾恋起こさせたからです。この主イエスの約束は、ペテロが言ったように、今ここにいる私達にも与えられているのです。ですから私達は主を礼拝し、讃美し、祈り、説教を聴き、また、一人でいる時、主との霊的交わりの時を持ちます。それによって、エマオ途上の二人の弟子が主に聖書を説き明かしていた時に彼らの内に燃えたように、私達も恵みの時を体験できるのです。 さて、主イエスが天に上られてからペンテコステの日まで、ペテロを始めとする使徒達は、何をしていたから新しい歩みを始められたのでしょうか。使徒1:14に「彼らはみな、女達とイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに,いつも心を合わせて祈っていた」とあります。彼らは、主に「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。…あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです」と命じられ、自分達の上に聖霊が臨むのを、いつも心を一つにして祈っていたのです。主をローマの手で十字架に付けて殺させたユダヤ人を恐れる彼らには、エルサレムは安心できる場所ではありません。しかし、そこが自分達にとってどんな場所であったとしても、主が命じたからそこに居て、留まって主の約束が実現するのを待ち続けたのです。私達も、礼拝をしていればいつも心豊かに満たされた思いで、新しい歩みを始められる訳ではありません。何も感じられず、ただ疲れるだけの時もあると思います。でも私達がどう感じようとも、気付かないだけで,聖霊は私達に語り掛け、必要な事を教えているのです。世界の歴史を見れば、この主の約束を信じ、待ち続け、その呼び掛けに気付き、主の働き掛けに応えた多くの人々が、大きな働きをしてきているのです。 主は彼らに「平安を残します」と言いました。そしてこの平安は主の「平安」なのです。主イエスの平安とは何でしょうか。16:33にこの平安の意味が教えられています。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし,勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と主イエスは言います。 聖霊が自分達に与えられるとどうなるのでしょう。復活した主が彼らに、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と言いました。この時はまだ弟子達は主の証人として全世界に出て行って福音を宣べ伝えることで、自分達がどんな目に遭うかは分かっていなかったと思います。先日テレビで「沈黙」という映画を見ました。江戸時代のキリシタンへの迫害は壮絶で言語に絶するものがありました。Ⅱコリント11:24-27に、パウロがキリストのしもべとして受けた数多くの苦難が列記されています。これらも凄まじいものです。しかし彼はピリピ2:17で「私が,あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる注ぎの献げ物になっても、私は喜びます」と言っています。彼の言葉には不安も恐れも感じられません。主が言った「わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません」と言った通りの平安をパウロにも与えたのです。ですから、艱難辛苦をものともせずに、心を騒がせずに,怯むことなく。キリストのしもべ、」奴隷となって福音を宣べ伝え続けたのです。何故彼にそれが出来たのでしょう。その強さの秘訣は何だったのでしょう。彼はありとあらゆる状況に対処する秘訣」を心得ていて、「私を強くしてくださる方によって,わたしはどんなことでもできると言える人間だったからです。彼は苦難さえも喜びでした。「それ。苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られが品性が希望を生み出す」と知っていたからです。これが主が与える、世が与えるものとは違う平安です。この平安は、今も主を信じ、「自分を捨て,自分の十字架を負って」主に従って生きる人に与えられています。私達にも与えられているのです。主は言います。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。怯んではなりません」と。苦難はあるでしょう。しかしキリストの平安を与えられた者には希望があります。黙示録7章にあるように、大きな艱難を経ても、世の終わり、主の再臨の時,子羊の血で白くした衣を纏って、子羊である主の前に立てる希望があります。主は今私達の目にも見えません。でも平安を与えています。心を騒がせす、怯むことなく主と共に歩みましょう。 |