メッセージ(大谷孝志師)
主イエスを信じる者に
向島キリスト教会 祈祷会説教 2025年1月15日
マルコ 9:14-29 「主イエスを信じる者に」 牧師 大谷 孝志
  悪霊に憑かれた息子の癒しを主イエスに願い出た父親は「信じます。不信仰な私をお助けください」と言いました。信じますと言いながら、自分は不信仰と言うのは、矛盾しています。彼は、口をきけなくする霊に憑かれた息子を主イエスの所に連れて来たのですが、主は三人の弟子と山に登っていて不在だったのです。そこで、残っていた弟子達にその霊を追い出してくれるよう頼みました。6:12,13には、主に汚れた霊を制する権威を与えられた弟子達が、遣わされて出て行き、人々が悔い改めるよう宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒したとあります。この事は知れ渡っていたので、この父親が弟子達に頼んだのは当然でした。彼らも自分達には出来ると思い、悪霊追放をしようとしました。しかしできなかったのです。それを見ていた律法学者達が弟子達に論争を仕掛け、弟子達が応戦し、論じ合っていたのです。主が山から下りて帰って来たのはそんな時でした。父親は主イエスを見つけると、事の経過を説明します。

 それを聞いた主は彼らに「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、私はあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言いました。主はこの世に人として生きていたので、このように感情を爆発させることが時折あったようです。「そこで人々は」とあるので、群衆は「あなたがた」を自分達に向けた言葉と受け止めたのでしょう。しかし主は残っていたいた弟子達に向けて語ったと考えられます。

 と言うのは、主が悪霊を制する権威を与えられ、主に遣わされて多くの悪霊を追い出した彼らは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけが高い山に登る主に同行を許され、自分達は下に残されました。主が高い山に登り、共にいなくても、自分達に与えられている権威によって、悪霊に憑かれた子の悪霊を追い出せた筈なのです。しかしかつての自分達は、遣わされ、主に託されて御業を行ったのです。でも、主が共にいず、自分達だけの状況の中で、自分達はその権威の持ち主なので、自分達にはできる筈だと考えて、悪霊を追い出そうとしたのです。ですからできなかったのです。その彼らには、主に全てを委ね、主にして戴くという信仰がなかったのを、主が鋭く指摘したのです。しかし考えてみると、私達の信仰生活も似たようなものではないかと気付かされました。私達も日常生活の中で様々な事について祈り願っています。聖書は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と教え、更に,信仰について、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」と教えています。そして福音書が、主イエスの言葉と行いを通し、主イエスを信じるとはこういうことです。こういう方と信じることなのですと具体的に教えています。

 しかし、頭では分かっているつもりでも、その主イエスを信じ切れないでいる自分にハッとすることが多いのが現実ではないでしょうか。下に残された弟子達も、主に叱責され、自分達の不信仰に愕然としたと思います。

 主は人々に、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と命じます。弟子達に、子の父親に、群衆に信仰とは何か、主を信じ、主に求めるなら何が大切かを教える為です。人々がその子を主の許に連れて来ると、悪霊が激しく反応します。悪霊が直ぐに子にひきつけを起こさせたので、彼は泡を吹きながら転げ回わりました。主は子の状況について父親に尋ねます。医学的に言えば、癲癇(てんかん)の症状です。しかし聖書は、ここに起きている出来事を通して、この世には人の心と体を支配する悪の力があると教え、主イエスは人をその存在と力から解放する方であると教えています。更に、私達がその主イエスを信じていること、主はこのような方であり、私達はその主が支配する世界、その信仰の世界に生きていると教えます。ルカ17:21で主が「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」と言うように、私達が神の国に生きていることは事実と聖書は知らせているのです。

 父親は、霊が息子を幼い時から殺そうとして、何度も火の中、水の中に投げ込んだと主に言います。そして主に「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」と願います。弟子達への言葉「霊を追い出して下さい」には、「あなたがたは今迄でしてきたし、できるのだからして下さい」との思いが感じられます。しかし主には違いました。息子を助けることだけでなく、「私たち」と、私も憐れんで助けて下さいと願ったからです。

 私達も他の人の為に祈る時、その人の苦悩を自分の苦悩として受け入れ、私達を憐れんでお助け下さいと祈ることが大事と教えられます。しかし主が私達に求めるのはそれ以上なのだと聖書は教えます。父親は「おできになるなら」と言い、神は私の願いを実現する可能性が有る方と信じましたしかし信仰は、神は万物の創造者、支配者、力ある方と信じることです。更に主は、彼に、「できるなら、と言うのですか。信じるの者には、どんなことでもできる」と言います。主は彼に、誰の前にいるのかに気付かせたのです。主の前にいる自分を見つめた時、息子が苦しんでいるから助けて欲しいからでなく、息子の苦しみを見ている自分が苦しいから助けを願ったと気付いたのです。人の苦しみがをその人のものだけにする時、私達は自分とその人しか見ていません。自分の苦しみにするなら、主の前に立ち、自身の救いを求める者になります。主はその願いを聞き、私も相手も救って下さるのです。彼は主の前に立つその自分に気付いたから、「信じます。不信仰な私をお助け下さい」と叫んだのです。私達は主を信じていますが、どんな方と信じているでしょう。聖書が書かれたのは、「イエスが神の子であることを、あなたがたが信じる為であり、また信じて、イエスの名によっていのちを得る為」なのです。私達もこの主を信じる者になりましょう。