メッセージ(大谷孝志師)
主を信じる喜びに満ちて
向島キリスト教会 礼拝説教 2025年1月19日
Iペテロ 1:1-9 「主を信じる喜びに満ちて」 大谷孝志

 新約聖書の中には多くの手紙が残されています。人の名前が付いている物と付いていない物があります。付いていない者の内、ヘブル人への手紙は昔から著者が不明のままで。内容が諸教会の読者の信仰生活に必要と認められ、聖書に入れられています。その他はパウロです。それ以外は諸説ありますが、主の兄弟ヤコブとその弟ユダ、そして使徒ペテロとヨハネとされています。

この手紙も1節にその名が書かれていることから、使徒ペテロの手紙と伝えられています。しかし、私達は著者が誰かよりも。聖霊が人の手により真理を、信仰者としての在り方を私達に教えた手紙として読むことが大切です。

 この手紙の読者は、ガラテヤ、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人達、今のトルコがあるアナトリア半島の北東部地域にある教会のキリスト者達です。殆どの人が、パウロと会ったこともない人々だったと思われます。ですからこれは、特定の読者への手紙ではなく、広く各地のキリスト者に、あなたがたはこのように神に愛され、護り導かれ、恵みと平安を与えられ、確かな希望を与えられていると知らせている手紙なのです。それで公同の手紙と呼ばれています。ですから、私達もこの手紙を今の世に生きる自分達への手紙として読むことができます。私達も、日本の尾道の各地に散って寄留している選ばれた人達なのです。寄留というと、私は千葉県柏市に住んでいたのですが、都内の高校に入る為に柏に住んだまま父の妹の家に住民票だけを移して受験し、合格して都立高校に入学しました。入学したら、市内の別な中学からも7名が同じようにして入学していました。当時は寄留がさほど問題なく行われていたからです。

 様々な理由で生まれ故郷を離れ、ギリシア、ローマの各地に散って、寄留して生活する人々を、ユダヤ人はディアスポラと呼んでいました。この手紙は、これらの地域に住むディアスポラのキリスト者への手紙なのですが、実は、今の私達への手紙でもあるのです。何故なら私達キリスト者は、パウロがピリピ3:20で言うように、国籍は天にあります。そこから地上の各地に散らされ、この世の各地に寄留して生活しているのです。そして、世の終わりの日に、天の御国という本来の居住地に帰り、そこで永遠に神と共に生きます。それ迄はこの世という居住地に寄留して生活しているのです。なぜかと言うと、私達も神に選ばれたからです。私達はキリスト者になる前は、父なる神も御子イエスも、神の国のことも知りませんでした。しかし神は、私達が神の子となる資格の持ち主であると予め知っていたのです。そして一人一人に御霊が働き掛け、私達は、一人一人がそれに応えて、神の子となって神の国に生きる道を選び取り、今も、自分なりにその道を歩んでいるのです。

 それはペテロが言うように、自分達の知恵と力に依るのではありません。私達はイエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれたからです。そして自分の意思と責任で「自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従って」生きているのです。ですから、ペテロの祝福「恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように」は今の「私達への祝福でもあります。「聖書はあなたに知恵を与えて、イエス・キリストに対する信仰による救いを受けさせることができ(Ⅱテモテ3:15)」るからです。

 私達が今、そのように神の子、神の民として恵みと平安を戴いて世に生きていられるのは何故でしょう。それは神が「ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって。私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせて」下さったからです。彼はその事を思い「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたええられますように」と言います。私達もそうして下さった神を心から褒め称えましょう。

 ペテロは、主イエスを信じて救われた私達は、新しく生まれさせられた者だと言います。私達は新しく生まれた者、新生した者だから、古い自分を捨て、新しい自分として生きていられる筈なのです。でも「自分を捨て、自分の十字架を負って主に従う」は、頭で考え、口で言うことは易しいです。自分の先週一週間の歩みを振り返ってみて下さい。そういう自分だったでしょうか。主は今自分が何をすることをも留めているかを考えるよりも、自分の思いを優先し、主に、この人の重荷を自分の十字架として負いなさいと命じられていると感じても、自分には無理と投げ出していなかったでしょうか。

 パウロはコロサイ3:9-14で「あなたがたは古い自分をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。」「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。」と言います。私達は弱い人間なのです。ですから聖書を読み、祈り、み言葉を聞き取り、御心を知らされることが必要なのです。自分は神にとって、どんな存在なのか、神は何をして下さっているのかを知ることを求めましょう。そうすることで、私達は神を信じる者になれます。主が言うよに「信じる者は、どんなことでもできるのです」。ペテロは私達が持たされているのは「生ける望み」だと言います。私達が持つ希望には命があるのです。「信じる者には、どんなことでもできる」という希望は、人間的期待や根拠のない希望的観測によるものではなく、十字架に掛かって死んだ主イエスが復活して、私達と共にいると御霊に知らされた事実に基づく希望なのです。それが事実と信じるなら、私達に出来ないものは何もなくなります。

 とは言え私達は、終わりの時に現されるように用意されている救いを戴く迄は、様々な試練の中で悲しまなければなりません。今しばらくの間とペテロは言いますが、試練の中にいると、とても長く、終わりがないようにさえ感じさせられます。しかし、主は世を去る前にこの世に残される弟子達に言いました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました。」と。確かに、この世に今生きている私達は様々な苦難を経験しながら生きていています。しかし忘れてはいけないのは、主は今も生きて私達と共にいるのです。私達は主が全てを支配する神の国に生きているのです。私達はその信仰によって世に生きているということです。どんな試練に遭っても神は「耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて」下さるからです。私達はどんな状況の中で生きなければならなくなっても、信仰により、神の御力によって護られているので、どんな試練に直面したとしても、試練は恵みであると聖書は至る所で私達に教えています。何故なら、私達は試練で試されることにより、私達の「信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価」になるからです。ペテロがそう言ったのは、当時の技術では不純物を完全に取り除いた純金を得られなかったからと思われます。私達は試練により、内に持つ不純物を取り除かれ、神に相応しい清い者とされると彼は教えています。そして世の終わりに主イエスが再臨する時、称賛と栄誉と誉がもたらされる最高の喜びが与えられると彼は教えます。

 最後にペテロは、使徒である自分達は主イエスと生活を共にし、主を目の当たりにしていたけれど、読者と後のキリスト者が、イエス・キリストを見たことがない現実の中にいることに触れます。主が復活して共にいる事を、見ないでも信じているので、主は喜び、必要な時に必要なものを与え、恵みと平安の中で生かしていて下さいます。だからあなたがたは言葉に尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っているのですよ、と言います。そうです。主イエスを信じて救われた私達は、キリストの十字架の贖いによって、この世を支配している悪魔の霊的力から解放され、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。この信仰の喜びに満たされて日々を歩み続けましょう。