| メッセージ(大谷孝志師) |
| たとえそうでなくても |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2025年1月26日 ダニエル 3:19-30 「たとえそうでなくても」 大谷孝志 |
今日の説教題は、ダニエル書3:18にあるダニエルの三人の友人の言葉です。昔、同盟の集会で、旧朝鮮の若きクリスチャン女性安利淑(アン・イスク)という人が書いた「たとえそうでなくても」という本の話を聴きました。この方は朝鮮での日本の軍事政権によるキリスト教弾圧に対して抗議するために帝国議会の議場で告発文を投げ入れたために逮捕されました。さらには帰国後朝鮮で神社参拝を拒否したことで逮捕されます。そして約5年間の壮絶な獄中生活を送ることになります。厳しい拷問に耐えながら、しかしその中でも福音を伝え、同牢の方々が救れ、様々な神様の恵みを体験された方です。 バビロンにイスラエルの主だった人々を捕虜として連行したネブカドネツァル王は、ダニエルの神こそが神々の中の神、王達の王と認め、彼にバビロン全州を治めさせ、彼の願いによってシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴにバビロン諸州の行政を司らせました。しかし彼はダニエルの神の偉大さは認めても異教徒のままで、自分達の神を信じることは止めなかったのです。 そして、自分の王としての権威を人々に更に強く認めさせる為に、自分達の神の壮大なおそらく金張りだったと思われますが、金の像を造り、これをドラの平野に建て、諸民族、諸国民、諸言語の者全てにこの像を拝むように命じたのです。すると、捕囚の民のシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴらが重用されることに不満を感じていたバビロンの中心的人々の一人のカルデヤ人が、王の前に進み出て、彼らの名を挙げて、彼らが王の命令を無視して、王の神に仕えず、王が立てた金の像を拝みもしないと中傷したのです。すると、王は怒り狂い、彼らを連れて来るよう命じました。連れて来られた彼らに、「私が造った像を拝むなら、それでよい。しかし、もし拝まないなら、おまえたちは、即刻、火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からおまえたちを救い出せるだろうか。」と言います。 ネブカドネツァル王は絶対君主です。自分がしたいと思う事は何でもできます。聖書はこの王の姿を通して、私達に大切な事を教えています。私達の場合も、私は私に対して絶対君主なのです。私達は朝起きて顔を洗おうと思えば洗えます。私の為に朝の食事を用意する人がいて、食事を出して貰えば、食べようと思えば食べられるし、嫌いな物があればそれをはじけます。折角作ってくれた物でも、食べない自由も持っています。自分が当然のようにそうするのは。出来るからです。しかし自分ではそうできても、相手に自分の思う通りに、これをしてくれと言っても、するしないは相手の自由ですから、決して自分の自由にはなりません。それでも人は、自分と相手が同じ一つの世界の中に生きている思ってしまい、自分の正しさを相手に押し付けてしまいがちです。しかし、全く別の世界なのです。別の基準によってそれぞれが自分の権威によって生きているのです。しかしネブカドネツァル王は、この世界の全てを自分が支配していると思っているから、お前達がこうすればこうなると言ったのです。ですから当然、それを聞いたシャデラク達は王に「王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません」と答えました。その像を拝む拝まないも、拝まなければどうなるかについても、あなたには関係ないのです。あなたは他の人を自分の思い通りには出来ないからです、と言ったのです。何故なら、私達が生きている世界は、あなたが考えている世界とは全く違います。あなたは自分がこの世界の支配者と思い込んでいるけれど、私達が仕えている神があなたを含め、この世界の全てを支配しているのです。私達があなたが造った金の像を拝まないことによって、あなたが私達を火の燃える炉の中に投げ込ませることは出来るでしょう。でも、私達が仕える神は、火の燃える炉から私達を救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出しますと、堂々確信をもって王に答えたのです。 先々週の礼拝で私は、江戸時代のキリシタンへの激しい迫害に触れました。多くの人々が棄教せずに殉教の死を遂げました。戦前もホーリネス教団への大迫害があり、ホーリネス系の教職者96名が逮捕されました。第二次検挙も行われ、合わせて134人が逮捕され、6人の教師が獄死しました。しかし当時の日本基督教団の責任者が「彼らの熱狂的信仰は我々教団では手の下しようもないくらい気違いじみているため、これを御当局において処断して下さったことは、教団にとり幸いであった。」と述べました。当時のキリスト教界は迫害を恐れ、国家権力に迎合してしまったのです。戦後80年を迎えようとしている今、それを「他山の石」として、自分達の信仰を吟味し直し、私達の神こそが、この世界の真の支配者として全てを御心のままに行う方と信じて、今も将来も、全てを主に委ねて、この世に生きることが大切なのです。 聖書は、シャデラク達の姿を通して私達に、私達が神を信じているとは、その神の世界に生きているとはどういう事なのかを教えています。パウロはⅠコリント10:13で「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えていてくださいます」と教えます。私達は安心して直面する事態に対処すれば良いのです。詩篇33:6に有るように「主の恵みで地は満ちている」からです。それを信じる事が、私達が仕える神を信じる事なのです。しかし、そこで忘れてはならないのは、神は御心のままに全てを行う方ということです。神を信じるとは、自分中心、自分本位の生き方を捨てて、神中心、神本位の生き方をすることだからです。パウロがコロサイ3:9,10で「あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」と言い、主が「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言ったのは、古い自分のまま、その自分を覆うように新しい人を着て、自分の全てが新しくなったと安心することではなく、内側から新しい人になることなのです。 シャデラク達は「神はあなたの手からも救い出します」と言いましたが、それは、神が必ずそうする筈だから、私達はあなたの命令に従わず、金の像を拝まないのではありません、言ったのではありません。彼らは続いて「しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神に仕えず、あなたが建てた金の像を拝むことはしません」と答えたからです。 最初に話した安利淑(アン・イスク)さんは、神社崇拝を拒否し、自分の信仰を堅く守りました。長い間投獄されたままでしたが、主を信じ、「たとえそうでなくても」と主を信じ抜いた信仰によって、同じ女囚の人々に福音を伝え、救いに導きました。神は「現実を御心として生きる信仰」を私達にも求めています。 さて、シャデラクらの答えを聞いた王は「怒りに満ち、炉を普通よりも七倍熱くするように命じ、彼らを縛って、炉の中に投げ込みました。しかし王が炉の中を見ると、火の中を縄を解かれ歩いている四人が見えたのです。しかも、何の害も受けていないし、第四の者の姿は神々の子のようだったのです。御使いが燃えさかる火の中に、三人と同じ姿になって遣わされ、彼らをその火から護っていたのです。ここに私は、全ての人を救う為に世に来て、罪に苦しむ世の人々と同じ姿で、人として生き、十字架に付けられた主イエス・キリストが暗示されていると知らされました。主は、先々の不安や恐れに捕らわれる私達を放置せず、共に歩んで下さっています。私達は将来の姿を心に描き、計画を立てます。主がそれを実現されると信じて実行しても、思いとは違う結果になるかもしれません。大切なのは、「たとえそうでなくても」なのです。「主を恐れ、主の御前におののけ、主が仰せられると、そのようになり、主が命じると、それは立つ(詩篇33:8,9)と信じていることです。「見よ、私は新しいことを行う。今、それは芽生えている(イザヤ43:19)」とのみ言葉を心に刻み。主は私達を愛し最も善い事を行う方と信じて歩んで行きましょう。 |