メッセージ(大谷孝志師)
私達も世の光だから
向島キリスト教会 祈祷会説教 2025年2月5日
マタイ 5:1-16 「私達も世の光だから」 牧師 大谷 孝志
  主イエスはみ許に来た弟子達と群衆に、「マカリオイ」、「幸いです」で始まる「八福の教え」を教えました。主が世に来たことによって、人はこのような幸いな者になれる時が来ていると教えたのです。ですから、人は主イエスを信じるなら救われ、この世が神が支配する祝福に満ちた世界になっていると知り、神の国の民となり、恵みと平安を戴いて生きられるのです。

 主は続いて「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」と教えました。地も世も、この世の人々を指しています。これは弟子達と群衆がそうなっていると、事実を教えたのではなく、主はご自分に従っている彼らに大切な使命を与えているのです。聖書を読んでいて大切なことは、その言葉を、自分や自分達への御言葉として聞くことです。主は私達にも「あなたがたは地の塩なのです。だから世の人々の為の塩になりなさい」「あなたがたは世の光です。だから世の人々の為の光となりなさい」と語り掛けているのです。今日は「あなたがたは世の光です」について学びます。

 主が15節で言うように、光は照らす為に用いるものです。覆いを掛けて隠したら、何の役にも立ちません。山で遭難しても、光があれば捜索に来た人に自分の存在を知らせられます。暗闇でも光を灯せば、暗闇でなくなり、自分のいる状況が分かります。光は私達の生活に欠かせないものです。

 主イエスが私達に「あなたがたは世の光となりなさい」と命じるのは何故でしょう。この世には自分は闇の中を歩いていると感じている人がいるからです。リストラや倒産により職を失った人、就職や進学が決まらない人達の中には、希望を失い、人生真っ暗闇と感じている人もいます。しかし、「ものは考えよう」と言うように、人生はものの見方、考え方、視点の置き方で大きく変わります。暗闇の中を手探りで歩いている思いになると、先の事が不安になり、恐ろしくもなります。しかし、周囲が明るく照らされるなら、今の状況、先に何があるか分かります。そして、覚悟しなければならない場合があるかもしれませんが、先への不安はなくなるでしょう。

 光には人の周囲を照らすと人の現状を明らかにするとの二つの働きがあります。主が言う山の上にある町は、遭難者が掲げる光や灯台のように自分の所在を示す光で、燭台の光は、周囲を照らし、現状を明らかにする光です。灯台は自分の存在を知らせることで、安全に目標に到達するにはどう進んだら良いかを示します。では「私達が世の光」とはどうすることでしょう。私達は、相手の心を照らせるのは主イエスであり、私達に出来るのは、主がそういう方であると知らせる灯台のようなものだと考えがちです。しかし主は「あなたがたの光を人々に輝かせなさい」と、私達にはもっと積極的な役目があると教えているのです。灯台の役目ではなく、その人の現状、現実を明るく照らす光になりなさいと主は命じているのです。

 しかし主はそれに続いて、「あなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」と言います。そんな事は私達には無理と思わないでしょうか。しかし私達に出来るから、主はそう命じたのです。主はヨハネ8:12で「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」と言います。私達は主を信じ主に従っているので、私達自身がいのちの光を持っているのです。マルコ10:27で主が言うように「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」自分を見るとできないと思います。しかしこの立派な行いは私達が自分の力でするのではなく、神にさせて戴くのです。私達はあるがままの自分で人に接すれば良いのです。主が言うように、主に従っている私達はいのちの光を持っているので、それを隠さずに人々の前で輝かせれば良いと主は教えます。

 とは言え、私達は聖書を読んで、確かにそうだろうけれどもと思ってしまうことがあります。弟子達も、自分達がこの世での生活の中でこうありたいと思う生き方と、主が求める神に喜ばれる生き方の違いに悩み、そんな事を誰ができるだろうか、と考え込み、落ち込むこともあったようです。

 私も聖書を読んで、主イエスを信じ、いのちの光を持っているのだから、光の中を歩めるのだと思っていても、少しも明るくならず、主よどうしてですかと、愚痴ってしまったことがよくありました。そして気付きました。牧師を長年していても、信じているつもりでも信じていない、信仰の眼で見ているつもりでも、それ迄の自分が得た経験で判断していたからだと。

 主はこの山上の説教で新しい生き方、新しいものの見方を教えているのです。この箇所もですが、主は、ない人、欠けている人は幸いですと教えているのです。主イエスに従い、福音を求め、主の教えを聞いている人は、誰もが地の塩、世の光なのですと教えているのです。福音を聴いている人は福音の世界にいるからです。御国に、主が支配する世界に生きているのです。ですから、幼子のように主を信じ受け入れれば良いのです。向島の地に教会を建てて、維持して下さっているのは、私達が地の塩となり、世の光となって、主イエスの素晴らしさ、主イエスを信じる者が戴いているものの素晴らしさを世の人々に、私達の姿を通して知らせる為なのです。

 昨年のクリスマスチャペルコンサ−ト、街角クリスマスキャロル、クリスマス礼拝と祝会により。多くの人々が主イエスを信じて生きる私達の姿に触れたと思います。主を信じる良さを知って貰うには、立派な事をしなければいけないのではないのです。私達が主イエスを信じて、喜んで、自分にできる事を一所懸命にしていれば良いのです。どうしてあんな事ができるのと思って貰うだけで良いのです。無理してよく見せようとせずに、素直に、気軽に人々に接しましょう。そして私達を用いて働かせる主がいるとその人々に知って貰い、主の素晴らしさ、良さを感じて貰いましょう。