メッセージ(大谷孝志師)
喜びで満ち溢れさせる主に留まる
向島キリスト教会 礼拝説教 2025年2月9日
ヨハネ 5:1-17 「喜びで満ち溢れさせる主に留まる」 大谷孝志

   私達は一人では生きられません。育ててくれる人がいたから、今の私達があります。育ててくれた人も自分一人では生活を維持できなかったのです。衣食住を購入するお金があり、それらを提供する人がいて、お金を得る為の仕事を提供する人がいたからです。確かに衣食住は必要です。でも、それらの物があれば人は人として成長できるのではありません。様々な人々との人間関係の中で、必要な知識、技術を学習し、身に着けながら成長したのです。でもそれだけなら、他の動物と大きな違いはありません。動物も、安全に居住する場所を確保し、子を産み、必要な食料を得る知識と技術を駆使して子を育て、独り立ちさせます。しかし、人は他の動物とは全く違う存在です。言語を駆使して、自分の思いを人に伝え、その思いを共有し、共通の目標を目指して、協力、協働して、望むものを作り上げ、自分達の必要を満たしてきました。これらの文明、文化は他の動物にはないものです。しかし人に有って他動物には無い重大なものがあります。多分皆さんが考えたものと違うと思います。それは自分が生きる為以外の目的で動物を殺すことです。最近もたくさんの兎を殺した容疑で逮捕された人がいました。多分、自分の興味を満たしたくて残忍な行為をしたのしょう。しかし自分や仲間の存在を守る為に、他者を攻撃し、殺戮することよりも、もっと重大な違いがあります。

 それは皆さんが少し前に想像した通りのもので、信仰、神を礼拝すること、神と霊的交わりが出来ることです。これによって人だけが、個体維持、種族維持以外の理由や目的で行動し、協力、協働が出来るのです。つまり、ただ相手が存在し続ける為だけに、自分を犠牲にしたり、相手に自分の全てを委ねられます。それは人だけが神の愛の性質を持ち、自己愛から自由になれるからです。何故そうなのかの理由の一つを映画化したのが、「猿の惑星」です。

 人が核戦争により世界を破壊したので、神が人との関係を断ち、言語能力を人から取り上げ、他の動物と同じ状態にし、猿類に人に与えていた能力を与え、猿類が神を信仰し、礼拝できる知恵と力を与えました。神は、人が自分中心な生き方をし、自分達の存在を守る為だけの理由で戦争し、他者を抹殺したので、人に与えた特別な資質を奪い、神が選んだ猿類に神の愛と知恵を与えて、神と共に生きる者としたのです。この映画は、私達に自分の信仰、神との関係を見つめ直さなければならない、との警告を発した映画でした。

 私達は、今教会に来て礼拝をしています。父なる神、子なる神の主イエス、聖霊なる三位一体の神を礼拝しています。それがどれ程素晴らしい恵みか、考えてみて下さい。日々、安心して自分の為すべき事が出来、安心できる人達と共にいる喜びを感じながら生活できるのです。勿論辛い事や苦しい事もあります。前途に不安や恐れを感じることもあります。人間なので、先の事が分からないからです。しかしヘブル11:1にあるように、主イエスを信じて救われた私達は信仰と希望と愛を与えられています。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるもの」とヘブル書の著者の言葉にあるように、私達は生活ので、望んでいることが実現する経験を何度しています。望んでいることと言っても、私達は主イエスを信じているので、他人の不幸は望みません。自分にとって相手にとってこうなれば良いと思うことを望みます。そして、そうなると思えるのです。私達は信仰と希望と愛を与えられているからです、信仰とは素晴らしいものです。私を私達を主が愛していると知り、その主イエスを信じているので、主が叶えて下さると信じられ、そうなることがあるからです。なぜそうなるのか、それは私達が主を礼拝しているからです。今この時だけではありません。一人で祈り、聖書を読んでいる時、家族や友人知人を話しをしている時、私達は主を礼拝しているのです。主が共にいると感じ、心が満たされる思いになっているからです。

 その時、私達は主の「わたしに留まっていなさい」との主の言葉従っているのです。そしてその主が私達の中に留まっているのです。ですから、私達はぶどうの枝がぶどうの木から実を結ぶ為に必要な水分と養分を受け取るように、主イエスから、生き生きと生きる為の信仰と希望と愛を与えられているのです。ですから、私達は今主イエスを礼拝し、同じ信仰の友と恵みを分かち合い、まだ主イエスを信じる喜びを知らない人達に福音を伝えられます。

 しかし、この世で主の証人となって福音を伝えていく弟子達に、わたしに留まっていなさいと強調し、留まっていなければこうなると警告するのは、この世では福音宣教を阻もうとする悪の力と戦わなければならないからです。主はこの後の16:33で「これらの事を話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました」と言います。主は、ご自分が天に昇り、彼らの眼に見えなくなってから、彼らが聖霊に満たされ、この世に主の証人として出て行っても、苦難に遭うと知るからです。私達も同じです。今こうして主を礼拝し、目に見えないが主が共にいると信じ、喜んで世に出て行っても、この世の生活の中で、様々な戦いを経験しなければなりません。勇気が必要です。でも勇気を出すと言っても、空元気で終われば落ち込んでしまうだけです。ですから主は「わたしに留まっていなさい」と命じるのです。でも、目に見えず、声も聞こえない主に留まるということは、今の私達には難しいです。ですから主は「私の言葉に留まっているなら」と言います。私達は主の言葉が詰まっている聖書が与えられているので、御霊に助けられて、私達は「すべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者と」なれます。

 私達が主に留まり、主の言葉が私達に留まっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすればそれは叶えられますと主は言います。主に私達が留まっていれば、これ程素晴らしい恵みを味わえるのです。主に留まるということは、言い換えれば主のものになるということです。悪の力はその私達を自分のものにしようと、自分の領域に、世界に引きこもうとします。そうすると主から離されてしまいます。そうするとその人は永遠の命を失い、滅びます。それは主イエスの十字架の死がその人にとって無駄になることになりす。主が悲しむことです。主に十字架の死の苦しみを再び味合せることです。それ以上に、その人が終わることのない苦しみに落とされることです。

 ですから、ぶどうの木に繋がっていても、実を結ばない枝が切り取られてしまうのと同じにならないように、わたしに留まっていなさい。わたしの言葉が留まっているようにしなさいと主は弟子達に命じたのです。そして私達にも命じています。しかし、この世に生きる弟子達が主の言葉に留まるのが難しいのを、主は知っています。そして私達にも難しいです。ですからこの主の言葉を私達への主の言葉として聞くこと必要です。それによって、私達もこの世で主の証人として生き生きと生きられるからです。主は言います。「父がわたしを愛されたたように、わたしもあなたがたを愛しました」と。私達も自分の信仰の歩みを振り返ってみましょう。主に愛されてきた自分に気付きます。主は私達をどんな時も、或る時は抱き抱え、或る時は手を引っ張り、或る時は背中を押すようにして、歩ませて下さってきたのです。その主の愛を心の刻みましょう。そうすれば、私達は主にすがり付きたくなります。しがみ付きたくなるかもしれません。そしてその主の愛に自分が留まるなら、主の愛の広さ、長さ、高さ、深さを知り、主の愛にとどまるなら、主の喜びが私達の内にあり、私達が喜びで満ち溢れるようになれるのです。そして、主が私達を愛したように、私達も互いに愛しいましょう。そのような私達になることによって、私達は喜びに満ち触れて、この世に出て行き、主の証人となり、主の素晴らしさを、主を信じることの素晴らしさを世の人々に伝えられます。その為に、それが出来るから私達は今、主を礼拝しているのです。